僅か開かれたカーテンから零れる穏やかな月明りの下、白磁のシーツに包まれたベットの上、薄灰色のブランケットに包まったリドルとリドルの掌に包まれたが居た。
普段は余程の事態で無い限り、真夜中に熟睡中から覚醒する事の無いは唐突に身体が軽くなり、深淵から意識が掬い取られる様な感覚に包まれた。
静謐な空気が充満し静寂だけが質感を持って香るような闇の中、硝子球の様な瞳を被っている薄い瞼が自然と痙攣するように、瞬きを繰り返した。

(………いま、何時?)

気怠い訳ではないが今一つ慣れていない小さな猿の身体に途惑いつつ、はゆっくりとかぶりを左右に振った。
リドルの「オヤスミのキス」攻撃を幾度と無く避け続け、脳天に軽い唇の感触がした事象を切欠に、前触れもなく浮上した睡魔は寸前までの内なる己の思考を綺 麗に拭い去り、一瞬でを睡眠の深遠へ追い込んだ。
自分が寝た、と言う意識の確立がされないまま眠りに沈んでいたため、唐突に訪れた睡眠からの覚醒に、は途惑った。

(あれか?やっぱりトムの言うとおり、猿は夜行性だったってことか?)

夢、と呼ばれているものを見ていた記憶はない。若しかしたら見ていたのかもしれないが、目覚めた時点で記憶に残っていないのだから、見てい無いも同等だっ た。
如何したのだろう、何かが胸奥に引っ掛かっている様な心地悪い感覚に身体が支配され、打ち払うためには薄地の掛布が擦れ音をたてないよう注意を払い、 身を起こした。

(……随分と可愛らしい寝顔じゃないの、トム・マールヴォロ・リドルさま?)


自動室温調整魔法が施された室内、微かな寝息すら聞こえず、死んだ様に夢の世界に入っているリドルを見詰めた。
小さな子どもの様にあどけないさまで睡眠を貪る、無防備な、それでいて端正な寝顔。


(ねぇ、トム。私が此の侭猿の姿から戻れなく為っちゃったら…)


戻れる保障など、何一つとしてなかった。
だからこそ、もしも戻れなかったら、そんな掠れた思考の残滓が心の臓を揺蕩たい、鈍く胸を軋ませる。
もしかしたら、真夜中にハネモノでも取り憑いた様に唐突に眼を醒ましたのは、二度とひとの姿に戻れないかもしれない、という焦燥感かもしれない。

(…私って、そんなにナイーブだったっけ?トムに言ったら大爆笑だな、間違いなく)

そんな考えがぼんやりと脳裏をよぎり、は我知らず微苦笑を浮かべた。


------------------ねぇ、トム。貴方なら、私に気が付いてくれるよね………トム。


届かぬ声、けれど確かにそう言って、は瞼を伏せた。
窓から零れる月明り、猿の瞳から見上げても変わらずに美しいな、憂いを帯びた瞳が下弦の月からゆっくりとトムの麗姿に移る。


刹那、世界を端から綺麗に余す事無く毀していくような、感情籠らない冷えた呪いのような詞を聞いた。
まるで薄く氷が張られたような冷たい雰囲気が一気に室内に張り巡らされる。





「殺してやるよ、僕から全てを奪ったお前を----------------殺してやる」


零れ落ちたのは、胸中で幾重にも押し潰して見ぬ振りをした負の感情を極限まで堪え、耐え切れずに毒を孕んで吐き出した様なことば。
静寂を全て破壊し、言葉に鋭利な刃物でも紛れ込ませた様、静かに突き刺さる暴怒の科白に、冷水を浴びたように頭上から血の気が引いていき、鋭く抉られた氷刃が突き刺さった様な悪寒と戦慄が全身を駆け抜けた。






臥 待月の春 4








空耳だと思いたかった。
今まで聞いた験しの無い冷厳なリドルの声色を聞いたは、引き攣る身体に鞭を打ち、一歩、また一歩とリドルの元へと近付いて行く。
投げられた言葉の爆弾の矛先が何処へ向いているかなど画策する事も無い侭呼吸を殺し息をするのを忘れたように、ゆっくりと忍び寄るように足跡を消す自分 に、は嘲り嗤いたかった。
今までトム・マールヴォロ・リドルを恐いと思った事は一度だって在りはしない。トムが嫌悪するとあるマグルの生徒に杖を向けているさまを偶然見た時も、 クィディッチ競技場で見た人を見下し威嚇する様な冷えた双眸ですら、心の臓をドライアイスに浸す様な熱く冷えた感覚を味わいはしなかった。


(もしかして、猿に私の名前を付けたのって…もしかして、日頃の恨み辛みを晴らす復讐のため!?)


くわばらくわばら、と十字を切り祈りを捧げたい心地で月彩が緩やか振りさすリドルに忍び寄る。小さな猿の身体では音さえ立たないシーツの上をするすると渡 り、寝ているだろうリドルの表情を伺えば、不協和を増した胸裡が音も無く軋みを立てた。
紅蓮の瞳を、女の其れより滑らかに見える頬に沿う漆黒の流れの影に、隠れさせている。

其の端正な寝顔が、何処か慟哭しているように見えた。


「…キキ?(……泣いているの、トム?)


覗き込むようにリドルの顔の傍まで寄れば、の耳にさえ届くか届かないかのかそけしい音が口唇を掠めた。


「お前なんか……ッ!!」


吐き棄てる様に告げられた言葉の後、蓋で密閉した鍋の中で煮沸し沸点を優に超えた湯が表面張力に耐え切れずに爆発したような、内側から強烈に沸き起こる魔 力の流れを感じた。
表面上は何一つとして変化の無いリドルの部屋で、リドルが内にひた隠しにしているだろう負の魔力が、眠りに落ちている本人の意思とは一切関係なく堰を突破 し、溢れ出した。
カタカタと小さく鳴る窓硝子、机の上に無造作に置かれた書物がバサリと音を立てて床へと落下し、何処からとも無く流れ込んでくる風に遊ばれるカーテンはふ わりと空に舞う。文鎮で重石をしていた筈の羊皮紙でさえも、紙の潰れる乾いた音がして、宙を舞う軌跡は軽やかに弧となり、部屋中に拡散した。

呆然と見据えながら、は如何し様か、と必死で考えた。
如何したら、リドルが悪夢を見ずに済むのだろう。いや、もしかしたら悪夢などが引き金で起きた現象ではないのかもしれないけれど、他に思いつく術が無い。
況して、自身の魔力を抑止できない程リドルが壊れるさまを見るなど、初めてのことだから、対応の定石が頭の中に無かった。


時計を見ていなかったが、朝日の昇る瞬間、一際濃い紫色を宿した空は冷たく部屋を淡い色に染める。
相変わらず暴走した魔力が留まるところを知らず、部屋中のモノが進路を決めずに自由奔放に駈けずり回る。小さなの身体に辞書並みの文献が降りかかって くるのも時間とタイミングの問題だろう。だがは構うこと無く、脂に近い汗に滲むリドルの頬を小さな掌で撫ぜ、そうして----------------魔 法を紡ぎだし掛けたリドルの唇にそっと唇を重ねた。

いつも、リドルと共に眠る女達が、そうしているように。


「キキキ…(大丈夫だよ、トム。誰も貴方を傷つけたりしない から)


僅か、寝ている筈のリドルが息を呑んだ気がした。
たった一瞬で、 何かに驚いたかのように全てを凍らせてしまった様に、荒れ狂う激情の嵐の様な魔力が粉砕し再び静謐な夜の空気が帳を落とした。
一体如何したのかと、慌てて首を傾げながら彼を見上げようとした時、ふわりと薫る仄かな狂花に似た香。
酷い散乱状態の部屋とは裏腹にとても静謐で静かな時間が流れていく中、の小さな身体は数時間前と同じ様、大きなリドルの掌にすっぽりと包み込まれてい た。


……やっぱり僕は、君から離れられないらしいね。」


眠りに落ちていた筈のリドルの声が、の鼓膜を掠める。


「…どんな姿でも…君が居れば、其れで良いよ、


変貌しない硬質な表情、けれど確かに心奥へ沁みいるような微笑を湛えて、リドルは僅かな躊躇い無くそう口にした。
驚いた様に見開く薄紫の瞳へ敷き詰められたリドルの紅蓮の双眸は何処までも清冽に、霞一つ無くその彩を湛えている。先程とは余りにかけ離れた穏やかに微笑 むリドルを見て、は思う。
端正な口唇で綴られた酷薄な科白は、間違い無くリドルの心の底に押し殺した本心なのだ、と。

聞いてはいけない言葉を偶然にも聞いてしまった様な心地の悪さで項垂れるに、リドルは絶えず小さな頭を撫ぜて遣った。愛おしさを織り交ぜ言葉で伝わら ぬならば指先から温もりを、と言わんばかりの寵愛に似た行為に、は常々思う。
もしかすると、この男は気付いているのではないのだろうか、と。が魔法薬学研究室で小さな猿の姿に変異し、リドルに『』と名付けられてこの場に存 在している事を。
気付いていながら見て見ぬ振りをして、こうして傍に居てくれているのではないか、と。


「キ、キキキ(ねぇ、トム…若しかして、気付いて…)


ふと、リドルが切なげな笑みを浮かべた。
縋る様に伸ばされたの手を掴んで、己の温もりを移し取らせるべく、強く包み込んだ。

柔らかい産毛に包まれた小さな手を握りながら、リドルは思考する。
幼いあの日から今日までずっと、自分の心の中に、薄く張られた膜がある。
何が起きてどれ程他人に心を深く抉られ、また逆にどれ程他人に必要とされ愛を囁かれても、誰にも見せない心の奥底、決して触れられぬよう、 幾重にも魔法を紡いで張り巡らせた薄い膜。
父の面影を思い出す度に、僕に群がる女を見る度に、表面上は訳隔てない顔して寄って来る大人たちを見る度に、父を想いながら死んでいった母を思い出す度、 内に張られたその膜は、緩く静かに膨張しつづけ、 今ではその形全てを捕らえられない程に大きくなった。

毀れる事なんて無いのだと、自負していた。けれど君と知り合ってから、外側からの攻撃に耐えていた筈の膜が、内側からの衝撃に耐え様としている。

感情持ったひとである君を手に入れられぬのならば、感情持てどひとならざる君を永久に、僕のものに。


そう願ったのが、全ての始まりだった。何と莫迦な事をしてしまったのだろう、かたちだけ傍に留めたところで心が手に入らなければ、何の意味も無いと知って いながら。


「ごめんね、------------もう、終わりにしよう、こんなくだらない事…」


Obliviate、静かにそう紡がれた呪文によって齎された沈む意識の中、確かに温もりを知覚する。
小さな猿の姿に為っているのだ、感じるはずなど無いというに、背中に、回された腕の感覚が走る。まるで人間の時に懐に抱き寄せられたかのような、頬にも灯 る温かな膚の感触。

(あぁ、此れは夢?猿でも夢って見れるんだ、知ってた?トム)

は口許を綻ばせ、耳元で密やかに紡がれる詞の続きを、ひっそりと胸臆に落としやる。


-----------------愛してるよ、


意識を手放す最後に、眼瞼の奥リドルの面影が覗いたような気がし、脳に届いた言葉は恋情を零し痛みを伴い愛を紡いだ台詞に聞こえた。






























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(C) 2002-6 The fanfictions are written by Saika Kijyo. update 2006/7/19