| 夜気に冷ややかにその身を浸していた変哲の無い窓が、東の端へ滲む明けの陽映を次第に透過させていく。 瞬き毎に群青から白明、柔らかな薄薔薇色へと変貌していく天球を硝子越しに暫し茫洋と眺め、緩やかな弧を描く様に昇り行く太陽の姿を認めて漸くリドルは重たい瞼を開けた。 突飛に射し込む緩やかな陽光、僅かに痛むこめかみを押さえて瞑目し、室内を見渡して呆れた溜息一つ、そうして乾いた苦笑も一つ落した。 妙に気だるい身体をゆっくりと起こせば、具に視界に飛び込んで来た状況は、眠りに落ちた時に脳裏に描いていた想像以上に悲惨なものだった。 「此れは此れは…酷い状態だね、まるで僕が強姦魔のようだ」 剥がされたシーツは四方八方引き裂かれ元の形状を事欠き、散乱した書物は様々な頁を晒した侭部屋中に散乱し、其れ等を収めていた筈の書棚は無残にも倒され数本の柱が見事に折れている。 机の上に置いた筈のインク壷は中身をぶちまけ床に乾いた黒い染みを作り上げて、羽ペンは天井に突き刺さった侭落ちてくることも無く静かに其処に在った。 ベットを中心として、魔法で引き裂かれ粉砕したピローから零れ舞った純白の羽毛があちらこちらに乱舞し、花瓶は完膚なきまでに破壊され薄い硝子が幾つも霧散している。 思わず眼を覆いたくなる凄惨な状況下、が蒼白い貌に際立つ瞳に涙濡れ乾いた様な痕を付けてブランケットに包まっているものだから、誰が見てもリドルが思わずそう言葉を漏らしたのも頷ける。 「が起きる前に僕が目覚めて良かった。此の侭眼を覚まされたら、本当に在らぬ誤解を招くところだったよ」 一先ず夜着に薄いローブを羽織って杖を一振りさせれば、シーツも枕もインク壷も書籍も綺麗な形に復旧されて自身が在るべき場所へとゆっくりと帰って行き、昨日までの完璧な状態である自分の部屋へと戻った。 其れから安らかに寝息を立てながら、猿ではない【人間の姿】で眠るの上に自分が使っていたブランケットを掛け置いて、リドルは自分の為に濃い珈琲を淹れベットサイドに腰を落した。 ふと窓を見れば、眼瞼を透かす朝焼けの焔光が強さを増していく。日に透けてキラキラと輝く草木が、美しい。 普段は考えもしない愚考を脳裏に侍らせ、其れを唯呆然と眺め遣りながら、リドルは密やかに心の中で溜息を落とす。 ―――――――――この状況、何て説明しようか。記憶は消したとは言え…深層では巣食っているかも知れない。 久しぶりに、ひとに見せた。本当は僕の中にもう一人の僕が蔓延っているのではないか、と疑いたくなるような程自我を喪失させる自分自身の姿、を。 制御していた筈だった。 本当はでなくとも、自分以外の誰にも見せる事無く、心の中で無理矢理圧力を掛けて押し込んでいれば面には出ない筈の感情。 今まで一度たりとも、自分で制御不能に陥り堰を切ったように毀れ出した事等無かった。 だが、咎が外れてしまったように、苛立ち、焦燥、失意、――果てに垣間覗き燻る、絶望を一気に魔力と共に放出し、それらが綯い交ぜになったような酷く不安定で険く、修羅にでも立ち戻った様に不意に父親への憎悪が心底から泡沫の様に浮かび上がって爆発した。 暴発が引金となって喪失し掛けた自我の中。 爆発したのだ、と自分で気が付き、抑制しなければ為らないと痛切に感じた瞬間があった。 奇しくも其の瞬間が、昏く冷え切なさを宿した薄紫の双眼と、触れるだけの本当に幼い口付けで。 (結局僕は…、モノじゃなくて、君の心までも欲しかったって気付かされた、だけだ。) 何だそんな単純な結論に達する為に、僕はに…、とリドルはにした仕打ちを今更のように苦く悔いて、ゆるりと全身を弛緩させる方向に意識を切り替える。 隣で眠る幼いこの少女を。 陽だまりの様に、壊れた玩具の様に屈託無く微笑う、きっと誰からでも無償で愛されるであろう唯独りの少女を、ただ欲しかっただけなんだ。 全く心憎くなるくらいに、心底、どうしようも無くなって非道な手段に打って出るくらい、ただ君が欲しかったんだ。 ひた、ひた、ひたと遠くで音が聞こえる。 ゆっくりゆっくりと、間隔が短くなりつつある音の正体を明確に捉える事は出来ねど、其れより先に、窓硝子に其の存在を認めた。 柔らかな霧雨が、一面に煙っていた。 もうじき、夜が、明ける。 臥待月の春 5
![]() 魔法薬学研究室でが被った得体の知れない、薬品。 其の正体は何の事は無い、完璧なまでに完成させられたポリジュースだ。 魔法薬学教授が留守の時に敢えて薬品の瓶を敢えて無人の魔法薬学研究室に置いたのも、が必ずこの部屋を訪れると踏んでいたリドルが予め計算しつくしていた想定内の出来事の一つにしかない。 小さな白い猿に為り、声すらマトモに出せなくなったを見付けて部屋へ連れて帰るという出来すぎたシナリオも勿論、リドルが精巧に作り上げた台本の中の一つである。 唯一つ、自分の自我を抑制し切れずに爆発した時に微かに触れたの唇が想定外で、その出来事を切欠に『例え猿の姿であろうともを一生自分だけのものに』と云う余りに稚拙で幼稚染みた感情を手放したのが誤算だった。 そもそも、そんなことで心を差し置いてひとを手に入れようという考え自体が間違っているのだが、そんな事は百も承知だった。 所詮、自分のような人間とは相容れない存在だと知っていても、承知の上で、欲しかった。 そんな事を連綿と考えるリドルの後ろで、ふ、と空気の動く気配がして、ブランケットがシーツを擦り上げる音がする。 眠りに堕ちていたを取り巻く世界が明確な像を結び、重い眼瞼を押し上げて双眸を緩く繰れば、僅かばかり眉を潜めたスリザリン寮監督生の姿があって、は一気に深遠の眠りの淵から覚醒した。 「……ト、トム!?………トム?………………トム…!?……?」 眼が覚めて、ブランケットを捲り上げて眠さの残る視界の中に朧に浮かぶ天井に眼を遣れば、明らかに自分の部屋とは異なる壁紙と室内に微かに馨る香り。 ゆっくりと隣を見れば、昨日まで見慣れたリドルの姿が在って、リドルは寝着にローブを羽織っただけの状態でベットサイドに腰を掛け、自分はブラウス一枚でリドルのベットで眠っている。 その事実に混乱し不機嫌な表情を貼り付けた紅蓮の双眸に見詰められ、必死で昨夜の事を思い出そうとするに、ほつりと隣の影から、呟きが落ちる。 「……頭は、大丈夫?」 鼓膜に忍ぶ、聞き馴染んだその声には薄紫の双眸をゆっくりと瞬かせ、寝起きで僅かに酩酊感の残る脳を無理矢理に叩き起こした。 「……あ、頭?…も、若しかして若干記憶が飛んでて私が何でトムの部屋のベットで寝ているのか全く以って記憶の範疇外なのって、私が頭打った所為!?」 「覚えてないとは思ってたけど…君、動く階段から落ちたんだよ?」 「あ、あの高さを誇る動く階段から………。絶望的だ、あぁ私絶対にまた頭悪くなった…。って、其れより如何して私がトムの部屋に居るの?」 「君が頭打って意識混濁してる中、魔法薬学教授は留守だしマダムも外出中で医務室は鍵が掛かってた。一先ず外傷が無い事を確認して僕の部屋に運んだんだ。呼べば応えてたから直ぐに起きると思ったんだけど、結局一晩中寝てたよ」 呆れたように呟いた台詞の後、紅蓮の瞳をやや眇めて、リドルはベットに片膝を折った形で座り直す。 自分の為にもう一杯、の為に新しい一杯を、と淹れた珈琲を手渡し、はより近くなったその相貌を横臥したまま仰ぎみる。 己を組み敷くような様で見下ろす、黒髪の大人の相貌。 「あぁ勿論、君に手を出すどころか君にベットを占領されて眠れなかったからそこ等辺は心配しなくて良いよ」 嘘も方便、普段と同じ様にからかうような響きで端的な台詞を吐いてリドルは薄い笑みを浮かべた。 だがそんなリドルの台詞は間逆の効果を生み出したか、切れ長の双眸と相俟って涼しげな印象を醸し出している黒眉を顰めつつ、はリドルを真直ぐに見詰め、言い放つ。 「ごめんね、トム……私の所為で迷惑掛けて」 密やかに、低く平坦な返答が零れる。 微かに睫毛を震わせて、申し訳無さそうに項垂れる白磁の顔に寄り沿う様に漆黒の髪が揺らぎ、珍しくが覇気を無くした。 トム、と小さく呼び掛けようとした声は、首筋にもたれた呟きで掻き消される。 君が。 ほとんど吐息に近い声音で、リドルは言った。 「君が無事なら――――――――僕は其れで良い。君が世界から消えたら…詰まらないだろう?」 切なげな笑みを浮かべ、囁きの後、静かに揺れる黒髪。 を間近で己を見下ろすその紅蓮の瞳には、言葉として告げることも無く、若しかしたら二度と叶わぬかもしれない恋情の想いが燻っているなど微塵も見出せなかった。 「……っ…め………も、」 「……?」 「一回目も、一番最初天文学の塔から落ちたときも、傍にトムが居てくれたら良かったのに」 闇色の髪が揺れ、白磁の面がリドルの方を顧みる。 縋る訳でも切なさ滲ませた訳でも無く、ほつりとがそう零した。 は嘗て、ボーバトン魔法アカデミーから直々に推薦を受けるほど長けた魔法能力と明晰な頭脳を兼ね備えていた。其れは、リドルがタイムターナーを少しばかり改造して作り上げた薬物を使って過去に遡った際に、幼いから聞いた実の話。 だが、幼いはリドルとの約束を護り切ったのか如何なのか、ホグワーツに入学し、こうして再びリドルとの再会を果たしている。 勿論今でも長けた魔法能力と抜群の運動神経はお墨付きだが、如何も明晰な頭脳とやらを、ホグワーツ入学当初に天文学の塔から落ちた際に喪失してしまったらしい。 人伝いに聞いた話に寄れば、天文学の塔から落ちた際、は生死の境を彷徨う訳でも無く、身体を壊した訳でも記憶障害を起こした訳でも無く、唯明晰な頭脳だけが抜け落ちたように脳内にぽっかりと空洞を空けたのだ。 ホグワーツ城と同等の高さを誇るあの高さから落下して無傷なのも尋常じゃないが、代わり眼を覚ます迄に三日余り気を失い、冷えた春の雨に打たれながら誰にも気付いて貰えずに孤独の侭冷えた身体を起こした。 自分は偶々眼を覚ましたから良かったものの、あの侭事欠いて誰にも気付いて貰えずに命を殺いでいたら、どれ程孤独だったのだろうか、と。 そう考えてしまったら最後、己を取り巻く小さな世界に、喜びなど一つも見い出せなくなってしまうような気がした。 なんて、価値のない、無意味な存在なのだろう、と純粋にそう思った。 「良いよ、好きなだけ落ちれば良い。何回落ちても僕が、迎えに行ってあげるから」 誰にでも使った口説き文句の使い古しの様な気がした科白が自然と口から滑り落ちて、もう少し言葉を選べば良かったと後悔し掛けた刹那、リドルの視界に飛び込んできた大きな菫色の瞳に、思わず息を呑む。 ふわりと漆黒の髪を揺らし、その下から覗く華麗な容姿で、言葉など何一つとして無いまま微笑まれた。 鮮やかな色彩の華に、思考が止まり、自然と紅蓮の瞳が、薄く見開かれる。 今直ぐに細い腕を掴んで引寄せ、薄い肩を包み込むように抱き寄せたいと、純粋に思う。 だが行使出来るだけの覚悟も勇気も持ち合わせてなくて、リドルが切なげな笑みを浮かべた。 「もう少し眠った方が良い、朝食の時間に為ったら起してあげるから、」 「ねぇ、トム…私、悪い夢を見たの。余り覚えて無いんだけど、トムが魘されてて、」 「、起きたら聞いてあげるから、もう……お休み」 言いながら、リドルは無理やりに安眠魔法と共に再度忘却魔法を施して、の記憶を猿に為る前の状態まで強制的に巻き戻して植付けた。 の友人や教師陣に対する対処は既に出来ている。ホグワーツ全体に魔法を掛けることなど、今のリドルにしたら何の造作も無い事だった。 悪い夢を見た、と言ったの微かに残る記憶の残滓は間違いなく昨夜の魔力の暴走の際に見せた出来事のことだろう。 哀しそうに、儚く揺れて誤魔化しを許さない純粋なひたむきさに満ちていたの瞳と言葉を直視出来ず、痛烈にリドルの胸を抉る。 「………僕が何度も迎えに行ってあげるから、だから君だけは何処へも行かないで傍に居てね」 夜の海波が引くように静謐に。 独り言はそこで潰え、リドルは眠りを貪り温かさを湛える幼い身体に己の温もりを移し取らせるべく、をゆっくりと強く包み込んだ。 安眠魔法と忘却魔法を掛けられて居るのだから、もうじき完全に忘れ去ってしまうのだろう、沈む意識の中、は不意に温もりを知覚しリドルの言葉を鼓膜が捕える。 背中に回された逞しい腕。恐らく懐に抱き寄せられたのだろう、頬にも灯る温かな膚の感触。 如何してかは説明が出来ない、だが蕾が花を咲かせるように自然には口許を綻ばせる。そして――、 貰った詞の続きを、ひっそりとリドルの鼓膜に囁くように落としやる。 何処へも行かないよ、トム。 例えトムがアズカバンに収容されたとしても、仕方ないから迎えに来てくれるまで何処へも行かないから。 だから、大丈夫だよ…。 この儚い泡沫の様な愛は、まるで人々が眠る頃になり漸く天空に姿を現す月に似ている。 恋人が月明りを頼りに訪れるのを、臥して待つ夜、臥待月と呼ばれる月。 そう、人知れず待ち続けるだけの憐れな、月に。 臥待月の様に、ずっとずっと貴方だけの傍に居て、貴方だけを待ち続けるから―――――――約束だよ、トム。 [ home ] [ back ] (C) 2002-6 The fanfictions are written by Saika Kijyo. update 2006/9/1 |