| ユメミタアトデ ![]() #003 漆黒の空に欠けた月がぽっかりと浮かんで僅かに鈍く光る様を見ていた。 天空には幾万の星が煌めいていたけれど、手を伸ばして届く程身近な物ではなく、傍に有るバスルームの水面に映り込んだ琥珀月を小さな掌で掴み上げる。 水上に有るのは何処までも真っ直ぐに透った深い夜の色と蜂蜜琥珀の色ばかり。 小さな掌に包み込まれた夜の月には見上げた漆黒の空に有るモノとは打って変わって、光も導きもない。 両の手でようやっと掬い上げた月を握り潰す様に両の手の中に閉じ込めれば、水面に波紋が広がって紛い物の月は何事も無かった様に透明の水に溶け消える。 そうしてまた、月から手を離せば、ぽっかりと水面に琥珀の月が浮かんだ。 6歳と云う年齢の自分はこの水面に映る紛い物の月で、遠く手を伸ばしても届くことの無い彼方の空に浮かぶのは15歳の、自分。 ……其処まで考えて、 は我に返り、その馬鹿馬鹿しさに溜め息を吐く。 悔しいような、切ないような、ひどく曖昧で苛立ちに近い感情。 そんな思考を侍らせながら、 は暖かな飛沫を頭から浴びて、漸く詰めていた息を吐き出した。 酷く場違いで似つかわしくない行為だった。生まれた家は本当に極一般市民の民家で、ルシウスの部屋に備え付けられたバスルームとは桁が違う。 嘗ての生家に有った自室よりも遥かに広いバスルームで、高貴な香りに包まれながら起毛の長い絨毯に両の脚を付けて歩く。 赦される筈が無かった。 「 シャワーを浴びて着替えて来い。 」 そう言って、ルシウスは の小さな身体をこの場所に置き去りにして行った。 渡されたのは淡い水色の夜着とふわふわと柔らかい感触のバスタオル。其れから簡潔に使い方を説明された。 腕に抱かれた侭連れて来られたバスルームは愕く程広くて、脚を踏み入れた瞬間に驚愕したルシウスの部屋同様に高級な装飾品が施さ れていた。 ドアノブ一つとっても、細かな銀細工が施してあり、如実に屋敷に注ぎ込まれた金銭の高さと莫大な権力を想像させる。 指先で触れることすら本当に躊躇ってしまう様な、疎まれているマグルの自分が触れては為らない気さえ起きた。 だから最小限しか触らない様に、触れない様に、注意を払って取っ手を掴みシャワーを浴びる。 此処から流れ落ちて漆黒の髪を濡らす其の飛沫が、外に降り積もる雪の様に絶対零度なものならば、少しは自我を保ち続けられたのかもしれない。 何処までも小さな身体、手も足も、満足に全て独りで生きていける様にまでは成長してはくれて居ない。 両親の残してくれたたった一つの片身に似た人形が起した奇跡、其れは奇跡と呼ぶには程遠い神が落した気紛れな愚行の様に思えた。 「 あ、の…シャワー、有難うござい… 」 「 気にするな。 私は仕事が有るから先に寝ていろ。 」 言葉だけで、何もかも奪われてしまう様な錯覚を帯びた。 濡れた髪をタオルで拭きながら寝室に向かった が言葉を最後まで紡ぐ前に、ルシウスは己が伝えたかった全ての言葉を一気に喋り終えると視線も遣さず手元 の羊皮紙を捲った。 見れば、 を抱き上げた此処まで連れて来た時と何等変わらぬ服装の侭、小脇に置いた燭台の灯りだけを頼りに羊皮紙に眼を走らせている様だった。 柔らかく包み込む様な橙の光りが部屋を包み込み、部屋に入った時には燈されていなかった暖炉は赤々とした煉獄の燈が灯っている。 幼い身体は事の他大人よりも外気温で体温を奪われる事が多い。そんな実情を知ってか知らずか、幼い の身体には酷く適した温度に調節されている。 優しさが、あからさまに人に伝わる事が嫌いなのだろうか、この男は。 そんな事を思いながら、 は先程与えられた部屋のベットに上がった時と同じ様にベットサイドに両手を付くと、勢い良く飛び乗るような形でベットに乗りあ が る ぱぷんと羽が舞う様な静かな音を引き下げて、スプリングが僅かに軋んだだけでの身体は無事にベットの上に降り立った。 少しばかり脚を取られて縺れる様にブランケットに頭から突っ込んだは、其処で、先程ルシウスに抱上げられた時と同じ柔らかな薫りに気が付いた。 気高い華だけが芳香する事を赦される、芳醇を髣髴とさせる甘く重たげな、けれど甘味と辛味のシンメトリのとれた酷く高貴な薫り。 初めはキツイと感じた其の薫り、今は何故か心が落ち着くと微塵でも思った等と気付かれない様に、はベットに横に為りながら真横に位置す る書斎の机に座るルシウスを見た。 流れ落ちるのは艶の有る銀糸、冴え冴えとした薄蒼の瞳が僅かに滲んで、橙の光を取り込み反射した。 美しく美麗な相貌、月灯りの下で見た際も其れは其れは痛い程に実感出来たが、遠目から客観的に見てもやはりルシウスの美麗さは純然としたものだった。 美しいと言葉で表現する事にすら、彼の美しさに対する侮辱なのではないかと、 は柔らかな起毛に身体を横たえた後に気付いた。 「 …お休み…なさい。 」 独り言に近い言葉を吐いて、 はルシウスに背を向けて双眸を閉じた。 幼い頃、夜中に、自分の悲鳴で目が覚める。 身体中に滴る程の寝汗を掻き、真っ暗で誰も居ない狭い空間で一心に震える身体を何時までも抱きしめた。 何度も何度も繰り返し、夢にまで現れる恐怖がある。決して忘れる事等出来はしない、一夜にして全てが変わったあの夜の出来事を記憶が忘れても心は憶えてい た。 網膜に焼き付いた微笑が静謐な視線と共謀して、過敏に為った神経を犯し、善人面で指し伸ばされた指先が頬に紅い糸を走らせた。 感情を消し去った酷薄な瞳は冷徹に澄み渡って、徐々に近づく足音に背筋が凍る。 幼い頃に経験した恐怖は消える事無く、暗闇が迫ると何時も独りで脅えて泣いて懇願した。 来ないで、と悲鳴のような声が洩れ、両の手で瞳を蔽って飛ぶ事の無い覚醒した意識を持余しては窓から明るい太陽の光りが昇る事だけを只管に祈っていた。 巷で噂される、例のあの人なんかよりも恐ろしく、己の存在を根底から揺さぶる様な酸鼻の恐怖だった。 幼い身体に染み付いた恐怖観念が、よもや時を遡った今頃に為って表れるのは詐欺だと、思いながらも はゆっくりと深い眠りの世界に入って行った。 あの頃とは違う、暗闇に覆われる宵でも傍に誰かが居てくれると言う安心感が、此処には確かに有った。 「 …やっと、眠ったか。 」 視界にすら映さない癖に、けれど突然思い出した様に横目に捉え、気付かれない程度に視界に存在を映し込んで寝ている様を見れば其の侭視線を戻す。 もう何度、この馬鹿馬鹿しい仕草を繰り返しただろうか。お陰で捲る羊皮紙のスピードも格段に落ちていった。 出逢ったのはほんの数時間前だというに、夜色の深い眼で、懸命に見上げ来る、幼い子供の視線。 覗き込む様に、相手の機嫌を伺う様な僅かに斜め方向の視線に映る己は、どんな表情を に見せているのだろうか。 興味無さそうに視線を態と外せば、何処迄も余裕無い無垢な表情が苦痛に歪んだ様に一瞬で変わる。 何だかんだと口からは己を罵倒する言葉や拒絶を表す言葉しか吐かずとも、きっと少女は知らないのだろう。 身体が小さくなった事への恐怖感からそうさせるのか、15の頃は玲瓏としていた漆黒の双眸が、今は頼りな気に揺れて、縋る様に脅える様な瞳で見詰めてくる のを。 幼い少女に為ったの瞳は、硝子玉の様な瞳だった。見るもの全てを綺麗に映し込む癖に、何処を見ているか理解に欠け、けれども其の奥は何時も虚空を見て 全てを隠し込んでいる様な気がした。 大方無意識に行われているの其の行動、其れを見る度に想う。 震えた指先、怯えた視線、掠れた悲鳴、視界に入れたもの全てが不快に変わる前に自ら手を差し延べていた。 視線だけで息が止まりそうになった経験は、もう二度と出来ないかもしれない。 高潔で、漆黒の真っ直ぐな視線に怯えの色を滲ませて、其れでも視線を逸らさず此方の瞳を見た。 囚われたのは、視線だけだと思っていたと言うに。 「 何れ、判るという事か。 」 諦めた様に小さく溜息を零して、ルシウスは書斎の椅子からゆっくりと立ち上がった。 白いガウンに零れたプラチナの輝きがぱさりと儚い音を立てる。 が立てた音より遥かに大きな音を立ててスプリングが軋み、小さな身体が重力に促されて沈 み掛けた方向へ流れ込む様に微かに揺らぐ。 今日は思いの他疲れた、と普段の癖でベットサイドの灯りに指を伸ばして垂れ下がる銀の紐を掴んではたと気付いた。 灯りを消せば訪れるのは漆黒に彩られた夜の闇夜だけ。 がまた脅えて其の小さな身体を震わせるのだと悟れば、自然と紐から指が遠退いた。 何故か。 そんな陳腐な疑問すら浮ばない程思考した訳でもなければ悩んだ訳でもない。 唯単純に…そう、例えば、普段は窓を開け放っていたが雨が降り始めたので窓を閉めようとする。けれど偶々雨が垂直に落下するものだから、気にも留めずに其 の侭窓を開け放っている様な、そんな感じ。 要するに、灯りをつけようが消そうが当のルシウスに何等問題は無かった。明る過ぎると寝付けないという事も無い。 偶々消し忘れた、其れだけの話。 「 …Good night. 」 同様、聞かせる訳でも無い就寝の際の挨拶、無機質な其れを何年振りに人に告げたろうか。 双眸を閉じ小さく上下する幼い身体に背を向けた侭そう言うと、小さい手のひらが布越しに背中に触れた。 何事かを思ったのも一瞬、其の侭きゅっと布地を捕まれ、額を摺り寄せる感触。 漆黒の髪が擦れてさらりと儚い音を立てた。眠りを貪る幼い子供の温かな体温が背越しに伝わって、咄嗟に身が凍る様な感覚に苛まれた。 大方、寝返りを打った際に偶々見付けたガウンを丁度良い支えにし、掴んだだけであろう。 が覚醒した気配は無く、今も変わらず規則正しい寝息が聞えてき ている。 縋り付く頼り無げな白い腕と小さな身体、温かな体温。少なからず、現時点において が頼るべき大人はルシウスしか存在しては居ない。 何も知らない純粋な、子ども。記憶を持たぬ侭に6歳の少女に成り下がれたらどれだけ幸せだっただろうか。 少なくとも、この家に於いてマグルの存在が疎まれている事にすら気付かずに居れるかも知れない。 例外無く、ルシウスでさえもマグルを嫌悪していると幼い は知っていた。だから必要以上言葉を掛けないし、言葉も返さない。 背を頼って来たのが、其れこそ其処等の女ならば身を返して腕の中に収め、髪を柔らかく撫ぜて遣りながら眠りに落ちることが出来た。 愛しているとか愛していないとか、全くの範疇外に行使出来る。ルシウスにとって、愛とは然程特別視する物でもなければ、溺れる対象でも無かった。 胸を焦がす激情、ゆっくりと侵食を始める其の前に、何時も悟られる事無く己で境界線を引いて差し止めていた。 溺れる必要は無い、求める必要も無い、愛して遣る必要も無かった。 愛等、求めずとも一方的に向こうから遣って来ては勝手に与えて行くだけのものだと認識していた。 だから、女を相手にするのは酷く楽だった。愛していると、言葉だけなら幾らでも告げる事が出来た。感情等籠めなくても良い。言葉一つで簡単に女はルシウス の愛を信用して、勝手に溺れてくれる。 言葉等、信用に足る物では無いとルシウスは予てよりそう思い続けていた。今も、昔も。 だからこうして、無垢な感情を剥き出しにした少女を前に、如何して良いのか判らないと言うのが情けなくも本音に近かった。 子供の世話など縁も所縁もなかった己がほんの些細な偶然から身元を引き受ける事になり、こうして同じ空間に存在し視線を合わせる其の度に、何も語らずとも 迷惑を掛ける全ては自分の所為だと瞳を悲愴に歪める幼い存在。 壊れてしまえば、楽なのだろうに。 其れすらも赦されない過酷な現実と向き合う少女に、ルシウスは小さく息を吐いた。 何時の日か、今日のこの日を後悔する日が来るのでは無いのだろうかと柄にも無い事を想いながら、ゆっくりと薄蒼の瞳に陰を落した。 其の日ルシウスは、久方振りに眠れぬ夜を過ごした。 [ home ][ back ] [ next ] (C) 2002-6 The fanfictions are written by Saika Kijyo. update 2006/8/14 |