サヨナラの言葉さえ上手く伝えられずに、もう二度と巡り逢う事は無いのだと判り切って居 ながら温かい手を離した。
痛みを感じる事の無かったココロが初めての痛嘆に遭い動転した様に慟哭し、呼吸する事さえも拒絶する様、存在しない君を想って、唯。
柔らかな陽だまりのなか、すべてを赦す様に無邪気に微笑った君を想い出す。
抱え切れずに溢れ毀れ出す恋情の如く紡ぎ出されるオルゴールの音と、あの日確かに交わした約束。
全てを否定し、真善美だけを求め続け、誰を何を傷付け、セカイから何を奪い去り、代価に何かを失おうとも。
あの日君を傷付け、何も感じることの無くなったこの心で何かを感じ取ろうとも、何を失おうとも。
君を失った痛みに比べれば、身体を失った痛み等比較に価しない。




---------- 涙は悲しい時に自然に頬を伝うものだと、最初で最後、あの日君を失って知った。





scar episode 2






----------- っ。 」





確かに一度だけ、久方振りに鼓膜を掠めた音程を認めた。
この屋敷内に、主である人間をヴォルデモートの名意外で呼ぶ者は存在しない。勿論多くの死喰い人達は主様、と敬意を込めて呼ぶのだけれど、其れでも其れ以 外の嘗て棄てた名を呼ばれるのは久方ぶりの事だった。
最後に聞いたのは何年前の事だろうか。思い出す事も億劫に為ってしまう程遠い昔の事だったか、記憶の奥底に封印しているだけで本当は極めて最近の出来事 だっただろうか。
其れすらも想い出せない侭、何かに導かれる様に立ち上がる。
重たいローブが大理石の床を擦り上げる摩擦音だけが静寂した空気を震わせ、重圧の気配だけがゆっくりと地べたを這いずり回る様に揺らめいて。
擦れ違う者全て平伏す様に深く頭を垂れ、神前に躍り出る様な面持ちで主を見詰め、己が居場所を再確認するが如く去り行く主の背を何時までも見送り。
左に証を持つ彼ら、真っ当な過去を持つ者は独りとして此処には存在しない。そう云った類の者しか集らない、が故に、だからこそ、己が生きる場所は此処しか 無いのだと。
何が真実なのかは判らない。だからこそ、何が悪なのか判らない。其々が模索し生きる場所を見付けるが為に此処に居る事を、唯独り誰よりも深い悲しみと怒り を知るヴォルデモートが赦してくれた。
だから居場所が、此処に在る。





「 だから、言ってるでしょう! 私は貴方に用事が有って来たんじゃないんだってば…!! 」

「 煩い、何を騒いでいる。 」





大広間から煩い程に空気に良く透る声が憤慨の感情を織り交ぜて高らかに聞えた。
中途半端に地面から引っこ抜かれた植物の様、死喰い人の独りにローブを掴まれ足が浮いてしまっている人間が独り。
漆黒の髪が身体を捻た反動で滑らかに揺れ、艶めいた色情味漂う声とは真逆の華奢な身体を懸命に動かして拘束から逃れ様ともがく。
其れでもやはり男女の差は歴然火を見るよりも明らか。今直ぐにでも少女は直ぐに半分程開かれた扉の向こうの世界へと追い返される為に、強引に投げ落とされ る未来が予想出来た。
突然の訪問者、其れは珍しいと云えば珍しい事かもしれないし、頻繁な事と云えば頻繁なのかもしれない。
唯一つだけ言えるのは、こう云う出来事はヴォルデモートの範疇管轄を超えるところで起こる出来事で有り、死喰い人が敢えてこの事実を伝えないだけなのかも しれない。


実際この場所に態々赴いて見る気に為ったのは、一瞬だけ脳裏を掠めた懐かしい音程と憤慨に価する其の名を紡いだ人間をこの瞳で見据える為。
邪魔な人間ならば自らが手を下すと退屈凌ぎの遊びを思い、消え逝く命の重さに等塵程の興味も示さずに。





「 …主様、この女が先程勝手に進入し… 」

「 勝手にじゃないって言ってるでしょう! 」





摘み上げられた少女が音を立てて床に落とされる音を聞いた。
背でも打ちつけただろうか、片手でゆっくりと摩りながら身を起そうとする少女を見下ろす様に視線を落せば、記憶に染み付いて離れない深浅な紫の瞳が翳る。
何処か懐かしい面影残る横顔と、人心に囁き掛ける様に響く透明で可憐な声色。
何処かで一度、逢っただろうか。普段人を殺める際には一瞬たりとも想うこと等無かった妙な感情が胸奥を競り上がり、気付けば細い腕を掴み無理矢理身体を引 き揚げていた。

力を少しばかり籠めてやれば、意図も容易く小枝の様に折れそうな骨に気持ち程度に付いている様な脂質、其の中を確かに流れる紅い血は純血かマグルか。
そんな他愛も無い事を思いながらもう一度視線を下に向けると、俯いた少女の顔が、酷く近くに見えた。
切れ長の前髪が視線を遮る様に揺れて、口調とは裏腹に淋しそうに思える瞳の奥を見て、はたと気付く。
悟られては為らないと身を引こうとすれば、此方の意図に気付かれたのか逆に腕を引かれて覗き込む様に見上げられ、小さく掠れた声が耳に届いた。





「 …リド…ル? 」





ねぇ、リドルだよね?
先程耳に届いた透明な旋律がもう一度鼓膜を掠め、錠を落していたココロの扉をゆっくりと外側から押し開いた。
聞えたのは確かに眼前の少女の桜色の唇から零れ落ちた音だと云うに、同時に脳裏に鮮明に蘇る記憶と共に聞えたのは、あの日から貰った木箱のオルゴール の音色。
心細いような切ないような、其れで居て何処か柔らかく心に染み込んで来る様な、そんな旋律。
忘れないで、とそう告げたあの日のの面影残る少女は、もう一度だけリドルの名を紡いで同じ様に微笑んだ。
酷く、嬉しそうに。もう一度出逢えた事を身体中で歓喜する様に。
切り取られた時間の一部、記憶の奥底に忘れ去った時間の欠片、確かに、其処に存在した証も何もかも封印する様に仕舞い込んで。
もう二度と出逢える事は無いと出逢っては為らないと己が己に言い聞かせ貫いて来た恋情。
忘れて、消して、封印して。あの時確かに感じた想いは、何処に閉まってあるのだろうか。
もう二度と目覚めさせる事は無いと誓った嘗ての慕情が君を求めて止まない事を、君を失ったあの日から知っていた筈だと云うに。

嘗ての想いが、告げられずに逝った言葉が、斃れ切れなかった恋情が…飄然した。





「 …私はもう、リドルと云う名ではない。 」

「 何言ってるの? リドルはリドルじゃない。 急に居なく為っちゃってから、私ずっと探したんだよ? 」





水を得た魚の様、紅蓮の瞳を覗き込む様に視線を合わせて無邪気に微笑んだはヴォルデモートのローブを掴む。
昔は考えもしなかったの温もりを思い出し、平静を装いながらも、鼓動が自棄に跳ね上がっている。
ローブ越しからでも伝わる温もりが、確かにが此処に存在していると云う事を再認識させて。
湿気た溜息を零し、覚られぬ様にと視線を外して。如何してこんなにも心臓の音が煩いのか、其れにさえも苛立つ程、今この瞬間が蜃気楼か夢の続きか、そんな 気さえ起きてきて。

失った記憶の中に…

何処までも広い空の蒼と隣で風に揺らぐ漆黒が織成す無限の交差点の其の中心点に嘗ての彼は居た。
煩わしとさえ思わなくなる程身近に在った懐かしい影が見得ない時は何故か心が曇った空に包まれる様に覆われ、君が危なっかしい足取りで掛けて来るのは何時 だろうかと其ればかりが心を支配し始めて。
君が居なくなってから、何度朝陽を向かえ漆黒の闇夜を過してきたか知れない。
もう傍に居ない存在の大きさを思い出して、触れる事さえ出来なかった温もりを想像する。
この先も共に在ろうだなんて、最初から無理な事だと判っていたからこそ、敢えて距離を取って居た筈が、気付けば其の距離こそが今の彼の首をキリキリと締め 上げる。
今でも想う、君の前から居なくなった其の後でさえも乞う様に。
出逢って暫くで、何時の間にか、空気の様に傍に居る事が当たり前な存在で在って。
類似点は相違点を遥かに下回り、如何して心惹かれたのか判らない位に自棄に身近な距離に感じて居た。


此れからもと共に在りたいと、一瞬でも思ってしまったあの日、サヨナラさえ伝えられない侭姿を消した。


蒼い青い空だけが自棄に綺麗に視界に映り込んで来た、嘗ての学び舎。
普段は彼が先に此処に居て、後からが掛けて来て。
其れなのに、あの日だけは違っていた。
花を抱えて走って来たが見たのは、唯無限に広がる蒼い空と、昨日は確かに無かった芝生が妙な方向に曲がった跡。確かに数分前までは、誰かが其処に居た であろう痕跡とリドルが昨日まで読んでいた古書。


其れだけを残して、リドルは、消えた。





「 ねぇ、リドル。 私ずっと探して居たんだよ、ずっと、ずっと… 」





誰よりも聞きたかった筈の声が。
誰よりも感じ取りたかった筈の温もりが。
誰よりも何を犠牲にしても護り抜きたいと思った存在が。


眼前に在るのだと知りながら、掴んで居たローブが指先から擦り抜けてゆっくりと落ちた。


ねぇ、約束だよ、リドル。
そう言って微笑んだのあの日の声が再び脳裏を掠め、遠くにオルゴールの音を聞いた。
空洞の心の中を自由に行き来する様に流れ落ちる旋律は留まる事無くゆっくりと紡がれ、忘れて居た何かを思い出させる様に身体に浸透する。
一体何を、忘れているのだと云うのだろうか。
告げられなかった想いは、叶えられなかった最大の臨みは、この腕に抱き留めたい温もりは確かに今此処に在ると云うに。
手を伸ばせば届く、推参せずとも手に入る事が出来るだろう其の存在は眼前に。


掴み取ろうとして、一瞬眼が眩む。咄嗟に閉じた瞼に映り込むのは痛々しいばかりの陽。
ようやっと開けた右眼に映るのは、淡い橙色に染まり掛けた空。
一方左眼に映るのは、深い夜色に沈んで逝く空。
そして両眼で仰ぐ空は、不思議な位に淡い水彩画のコントラストを描き出す綺麗な翡翠色。



一度空を見上げて視線を戻した先、其処には己以外の存在は何も無く、想い出の中だけに眠る記憶の場所が在った。
柔らかく吹き付ける風にローブが翻り、ゆっくりと一面を見渡した其の場所。


ねぇ、リドル。オルゴール…ちゃんと聞いてくれてる?


何時までもそんな言葉が耳を付いて離れない、の声だけが唯一の存在だったあの場所に、彼は居た。











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