あれから幾許の月日が流れ落ちただろうか。
思い出す事も最早出来無く為る位遠く遠くに置き去りにした想い出と、一つのたからもの。
ねぇ、君は未だ憶えてくれている?
忘れようと努力を講じてみても、何の効果も得られない呪縛に長年蝕まれ、気付けば君の姿を何時も探していた。
ねぇ、君は未だ忘れないでいてくれている?
あの日、二人だけで交わした約束を………
scar episode 1
「 お土産だよ、リドル。 」
「 …土産…? 何処に行っていたの? 」
持余す時間の暇潰しにと図書室から適当に見繕ってきた古書から視線を剥し、久方振りに見上げる空は、何処か湾曲した万華鏡の一種の創り物の様に瞳に映りこんで来た。
蒼い筈の空。
一直線上に並んだ雲の翳りさえも拒絶する様に、太陽の光りを水面に反映させる様に乱反射させて蒼を写し取ったみたいに映る。
太陽に背を向けていた為に急激に瞳に光りの刺激を与えられ視界が霞み、其れでも映りこんで来るのは蒼い空。
其れに僕は少なからず安堵の溜息を零した。僕は蒼い色の空しか知らない。
勿論、暗雲が立ち込めれば霞掛かった灰色が空を覆い尽くし、太陽が隠れれば漆黒に覆われた夜色の空が広がる。
しかし、実際は全て蒼を基調とした藍色の絵の具で塗り潰した大きなキャンバスに、時間と時期に合わせて色絵具を被せただけに見える。
昼も夜も、晴天の日も嵐の日も、霧雨も粉雪も、全て其れは、空に何かの名前を付けて呼んだだけの存在にしか思えず如何しても好きになれずに居た。
「 実家だよ。 日本。 ホグワーツからだと凄く遠い東洋の国。 」
ホグワーツの空も綺麗だけど、私の郷里の空も綺麗だよ。
空ばかりを眺め一向に視線を交わそうとしない僕にそう微笑んで、さも当たり前の位置の様に僕の傍らに腰を落したは、紅蓮の瞳と視線を合わせてもう一度柔らかく笑んだ。
透明感のある薄紫色と淡灰色の混じった美麗な色彩に埋もれる様、丸い硝子玉の様な大きな瞳に紅蓮が映り込んでいた。
同じ時を過す内、時間の流れと共に凄烈な速度で綺麗に為るに、何時の間にか手を伸ばしても届かない存在に為ってしまう様な疎外感を感じる。
幼い頃から一緒に居た訳でもなければ、惹かれる様な特別な出来事が有った訳でも無い。
唯気が付けば傍らにが居て、当たり前の様に僕に話し掛け時間を共有し、独り以外を頑なに拒む僕の領域に侵入してきた。
そうして気付いた時には其れを不思議だとも思わなくなる程、互いの心が傍に在って。
「 とにかく、此れはリドルにあげる。 」
「 …箱? 」
「 うん、箱。 」
無邪気な子どもの様な微笑みで言葉を返すの背後に、泣いた様な空が映った。
頼り無い掌の上にちょこんと乗った小さな箱は木製で、ホグズミードでは見た事が無い類の珍しい細工が彫られている。
どうぞ、と差し出す様に僅かに首を傾げたの好意を削がぬ様、所詮本当に陳腐な箱だったとしても其れを無下にする訳には行かなかった。
の掌には丁度良い、僕の掌には若干小さ過ぎる箱を手に取れば、微かに何かの音がした。
受け取った小さな箱をひっくり返して、其処に硝子細工の小さな螺子が有る事に気がついた。
蓋を開けば其処に精緻な細工が施されたリールが置かれ、が巻いた後だからだろうか…鈴の様な音を立てて残滓の様に螺子が回った。
嘗て母親に貰っただろうか、酷く懐かしい気持ちに為る其の音色を聞きながら、如何してこの年齢でオルゴールをくれたのだろうかと私意して見れども、答が浮
かんで来ない。
「 私のこと、忘れない様に。 」
心の中だけで思案した思考が通じたのだろうか。降って来た言葉に怪訝そうな視線を送る。
冗談だよ、そう言って何時もの様に微笑んだを見て、オルゴールに視線を戻した。
無意識の内に、一瞬だけ鳴った音楽の続きが聞きたいと爪の先で引っかく様にニ三回廻せば透明で繊細な音色が零れ落ちて来た。
曲目も歌詞も判らない。
唯ただ懐かしく…まるで箱が泣いている様に慷慨する様な旋律が心に染みて。
そうして記憶の片隅に眠る何かを思い出した。
焼け焦げた紅い空、伸び切った青い草木が風に戦いで独特の香りが立ち込める薄暗い部屋の中。
陽の光りが僅かに射し込む埃臭漂う地下室、壁に飾られた色褪せた写真に手を伸ばして、指先が届き掛ける瞬間。
どんな写真で、誰が其処に映り込んでいたのかは憶えても居ない。唯、暖かな写真だった事だけは感覚として想い出せた。
何年前の写真だろうか、写真に懸命に手を伸ばしたのは何年前だっただろうか、写真に触る事は出来たのだろうか。
何もかも憶えていそうで憶えて居なかった。其の記憶の名残、唯一は背後に厭味な程照り付けた夕焼けが描き出した僕と同じ瞳の空だけだった。
「 繊細な曲だね。 …薄い硝子細工みたいで壊れそうだ。 」
「 壊れないよ、オルゴールは精密に創られているから。 だからずっと持っててね。 」
其れから月日が流れ、昔懐かしいと思い出せる位にまで為った頃でも、約束だよ、と念を押す様に言った其れを証明するかの様に事有る毎にオルゴールについて
問うて来た。
箱は色褪せて、辛うじて細工は見えるものの光陰で総てが塗り潰されてしまった様に混濁した色彩に変わり果て。
其処にあった大切なモノも、閉じ込めて置いた大事な記憶も全て見失ってしまいそうな、そんな色。
其れでも螺子を廻せば今でも転がるような音で、可愛く、どこか寂しげな音を立ててオルゴールは鳴り続けた。
昔の何かを思い出させようとするが如く、昔の何かを忘れないようにと念をおすが如く。
其れでも、時に現実は残酷で。
失くしたく無い存在だからこそ、自ら切り捨てなければ為らないと教えてくれたのは、記憶に無い優しい面影残る母だったか母を裏切った父だったか。
身体に染み付いた様に流れる血が滲出する故なのか。
---------- ねぇリドル。 オルゴール、ちゃんと聴いてる?
オルゴールを見れば自然と螺子に指が動き、一瞬指が掛かれば後は敷かれた線路の上を歩く様に螺子を巻き切って音楽が流れ始める。
初めは土産だと言われて貰っただけに過ぎなかった箱が、最終的には僕の唯一の棄てられぬ持ち物に為った。
記憶の奥底に眠る夜色の地下室に似た湿気た灰色の地下篭城、自棄に耳に付いて響く音がオルゴールだと知る者が居たとしても誰も何も言うことは無い。
彩色に欠ける室内、索漠とした屋敷の中で、其れだけが唯一の意味在るモノのような気がしていた。
瞳を閉じれば思い出す、の言葉と柔らかな微笑み。
オルゴールの音は聞けても、其れでも今はもう、聞けはしない。
耳に響く乾いた音、記憶の奥に眠る確かな音程。曲名も歌詞も判らない侭、僕等は大人に為って、そして。
再び見上げた空は、あの日見た蒼い空なんかじゃなくて、憂いを絵に描いたような残酷な朱を混ぜた凄艶な鮮紅だった。
今に為って想い出す、がオルゴールをくれた其の意味を。
若しかしたら、意味等無いのかもしれないし、意味が在るのかも知れない。其の疑問を解いてくれる少女は今此処には居ない。
傷つけない様に傷つかない様に、卒業と同時に身を隠した僕はの行方を捜す事をしない侭、幾許かの年月を過して来た。
君は今、何処で何をしているのだろうか。
溜息に似た想いは吐き出される事無く、代わりとでも云う様に静かにオルゴールの音色だけが室内を満たし。
何時かもう一度、君に逢いたいと想いながら…、消し去れぬ恋情の溶け込んだ蓋を静かに閉じた。
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