レプリカエデン




#05:契りし約束、綴るは忘れえぬ想ひ







気が付けば、柔らかな霧雨が薄く広く棚引く雲のように、庭先一面に煙っていた。
だが、凄絶な神気と生き物独特の熱の温みとは違う冷えた空気を、置き土産に残していった夜叉の気配を全て洗い流すかのような絶妙の間合いに降り出した雨を今更のように気にする者は居ない。
其れも其の筈。一様に、青龍のかそけないが確かに薄い口唇から囁かれた言葉に、皆息を呑んでいる。
静まり返った安倍家の客間。バチバチと音を立てて燃え上がる薪の音が酷く煩い。その中で、昌浩は激しい躊躇と逡巡を、頭の中で巡らせていた。
別れたって如何云うこと?青龍とは如何云う関係だったの?神と神将が恋をするのは禁忌?は質問を受け付けるといってくれたけど、僕が口を出してまた青龍は…。
考えずとも判る、不機嫌な表情だけなら未だ良い。激昂されでもしたら、意外と芯では弱い自分は二度とと言葉を交わせなくなるだろう。其れだけは避けたい、だが…、
と、そこまで考えた時、諦めを含んだ溜息を落として、が口を開く。






「…………神将も七十年経つと…性格が変わるのか?自棄に女々しいぞ、青龍」

「女々しい、だと?何も告げずに突然天界に帰ったお前が眠ってもう七十年、その間に…何も無かったと思うのか?」




に女々しい、と切り捨てられた青龍は何時もの不機嫌な表情で、どこを如何解釈すれば女々しいんだ、と言わんばかりの表情で睨み付けながら吐き捨てる。
だがが屈する筈も無い。相手が青龍だろうが勾陳だろうが天空だろうが、に睨みを利かせたところで、僅かに眼を細めて此方を見ているようにしか映らない。
本当に誰かを睨む、と云う行為。眼が合った途端にぞわりと、怖気に産毛が逆立つような其れを、昌浩を除いた全員は嘗て経験している。



勿論昌浩も、違う意味では理解していた。
青龍や紅蓮、晴明に睨まれたとて所詮は【睨まれた】だけだとしか感じない。
だが、に一番最初に遭った時の衝撃は凄まじい。締め上げられる緊張と強烈な不安に恐怖、冷たい汗が額に浮かんだのは、嘗て死を覚悟したあの時だけだと思っていたのに。
心内で思い返しながら、昌浩は隣の勾陳を見る。勾陳だけではない、十二神将と晴明は、今でもあの時の記憶が鮮明だ。


が天帝の玉座でかの夜叉を一瞥した時。あの時の恐怖を、誰しもが心と身体に刻み付けている。
忘れることなどできはしない。記憶が例え忘却しようとも、身体と魂に痛いほど刻み込まれていた。
が人間と同じような身形をしていても、所詮は人知を遥かに超越した人ならざる神なのだ、という事をまざまざと実感させられた。
だからだろうか。流麗な眉に深く苦渋を湛え、抑揚の籠もらない低い玲瓏な声色が、酷く恐ろしく聞こえた。





「私は【さよなら】と言った筈だが」
「…そう云う問題じゃない」
「七十年の間に、何かがあったとでも云うのか?」
「……若菜が死んだ。騰蛇が一回晴明を殺しかけた。晴明の母、晶霞が死んで天狐の血が途絶え掛けている。」



薄い口唇から囁かれた声に、一同が黙して聞いている。誰一人として、青龍の言葉を割って話しに介入するような命知らずな者が居ないという事ではない。
と青龍以外は本当はこの場に居ないほうが良いのではないだろうかと言う、規模の大きな痴話げんかのようだからだ。
が安倍家を去り幽閉ともいえる永きに渡る眠りの中で起きた出来事など、あげればキリが無い。
神にすれば七十年など呼吸程度の記憶なのだろうが、生憎と人は違う。七十年も歳月あれば、人は生を受け人生と云う道を歩きそして死す。晴明の様に、生きている事が、奇跡に近いのだ。
一般人の様に平凡に生きている訳ではない稀代の大陰陽師とその臣下が歩いた七十年、其れの全てを言えというのか。そんな苛立ちをふんだんに含んだ青龍の言葉に曖昧に頷きながら、は怪訝に眼差しを返し、苦笑の混じった言葉を吐く。



「………最後に、稀代の天才陰陽師安倍晴明の後継者、昌浩が生まれた。違うか?」

青龍の視線を横顔に捕らえたまま、金色が薄く、綺麗な綺麗な弧を描いた。

「………俺はコイツを認めて居ない。」


「お前が認めて無くても、昌浩は晴明の意思と力を継いだ子どもだ。
…一つ云っておくがな、青龍。私が無駄に七十年間寝ていただけだと思うなよ?
こんな成りでも私は一応神だ。人の世を映し見ることなど造作ない」



独り言のように囁いて、すっと瞼を伏せる。
あぁそうか、だから自分がに自己紹介しようとした時に「知っている」と答えたのか、と今更ながらに昌浩が納得した。
怜悧な美貌を更に冷たく冴えわたらせ、は昔を懐かしむように、双眸を伏せたまま口を開いた。


「…だからあの後、此れでも後悔したんだがな。棄ててしまえばいっそ、楽だったんだ」



覇気を無くし憂いたように過去を偲ぶ横顔は思いのほか幼かった。頼りない風情で、けれどもその金眸をほんの一瞬かすめた影を、昌浩は見止めてしまった。
何気なく言われた言葉、”何を棄てていたら”とは言わない。敢えて言わずとも、勿論今日初めてに出逢った昌浩でさえ、が「何」を「棄てる」のか、の瞳を見て。その瞬間に判った、判ってしまった。
はきっと後悔したのだ。七十年と云う、神にしたら瞬き程度の刹那の時間、人間で言えば生き抜いていれば大往生とも言える長い期間、彼女はずっと。
「神」と云う柵をあの日「棄てて」仕舞えば良かったのだ、と。


―――――――……っ、


青龍は薄く軽く眼を見開くが、それもまた一瞬の事。顕わにした感情をあっという間に殺し、胸をかすめた感慨に違和感もなかった。
が、「神」の座を棄ててしまえば良かった、そう思案したのは紛れない、自分との未来の為にだろう。
自負すれば、苦く呆れが滲む。に対してではない、その意を汲み取れずに七十年も湧き上がる煮沸した怒りに耐えてきた自分自身に。

だから青龍は、

ゆるゆると息を落としながら、愛しい人の名を一度だけ呼んだ。続く言葉は何にすればいい。
だが青龍が逡巡している間に、豪奢な金と視線をきっちりと絡ませ届いた酷く真摯な声が、彼の胸臆を慄わせた。



「一つだけ言っておく、青龍。今まで…人にすれば莫迦みたいに七十年間も唯眠っては居た。 そして、あんな最後だったが、私は一度もお前を忘れたことなど無かったぞ」

「―――――っ、」



安倍晴明配下に下ろうとも、身命として護ると誓った相手と離れていた七十年。
許可無くば神将如きが立ち入る事すら許されぬ天界に座する阿修羅が統治する地、かの地で百年と云う永きに渡る眠りに堕ちていた筈の阿修羅の御子との、突然の再会。
沈着冷静、怜悧透徹な筈の青龍が、動揺と錯乱に似た自己嫌悪に苛まれた。護ると誓った筈が、に手を伸ばすことも叶わず、阿修羅王に召還されていくを見ていることしか出来なかった。
何度悔やんだかわからない多くの瞬間、決して取り戻すことは出来ない時間、彼女が居ない無限の様に感じられる空虚な時間。


誰にも知られる事なく、誰にも悟られる事なく、この想いは消し去って仕舞えば良かったか。
そうすれば今も彼女は此処に居たかもしれない、七十年、そんな想いばかりが胸を去来していた。いっそ自分の中から忘れ去ってしまえればいいとさえ思っていた。其れは事実、多分、今でも。心の何処かで。
神将と呼ばれる神の末端に位置する青龍如きが、神話の時代から継がれる阿修羅の御子を想った所で、如何にもならない。許されるはずもない感情だった。赦されてはいけない想いだった。
判っている、判っていた。けれど、あの時、其れを躊躇う余裕や良心、理性なんてものは存在しなかった。
だからあの時、差し伸べた手を取ることなく、全てを護る為に「さよならだ」と言ったに、怒りに目が眩むほどだった。
やはり神と神将は相容れないとお前も言うのか。
理不尽に浮き上がってきたそんな感情に、呆然としたのを良く覚えている。


だから、……なのだろうか。
凄絶な神気を纏い安倍家の屋根に降臨し掛けたを歓迎すべく出迎えようとした十二神将の中で、一人だけ呼びかけに応えずに居たのは。
否、どんな顔をして逢えば良いのか判らず、何と言葉を掛けて良いのかすら浮かばず、姿を消して神気を取り去って。
半ば卑怯な手法で垣間見た嘗ての想い人は、七十年の時を経ても尚変わらず、青龍は嘲笑した。
そうして理解する。七十年経っても尚、自分の想いは留まるどころか堰を切ったように流れ出して溢れ出るしかないのだと。



「………七十年経って忘れたか、俺の名を教えただろう」

青龍は仰々しい仕草で胸の前に腕を折って頭を下げて見せ、告げる。それは貴いものに傅くような、そんな仕草だ。
薄い蝋燭の光の下、きらきらとした漆黒の綾を背に流す綺麗な神の、滑らかな頬に指を触れる。




「忘れてなど居ないさ、―――――――― 宵藍」




そう呼んだ声色を、これから先一生忘れないだろうと青龍は思った。
硬質な低い声が、大切な者を呼ぶかのように発音を紡ぎだす、まるで自分の名ではないようにすら感じる。
そうして不敵に微笑み返されたその壮絶な美貌に、うかつにも目を奪われた。青龍だけではない、昌浩も晴明もだ。
勾陳の眼差しは優しげに細められ、紅蓮もとい、もっくんはやってられないとなかり、丸めた背に小さな頭を突っ込んで眠った振りをする。
そう云う話は二人きりで余所で遣ってくれ、そう皆が思うが口に出せる勇気のある者は居ない。如何か此の侭甘ったるい空気に為る前に、誰か口火を切って打破してくれぬだろうか、と晴明が示唆した丁度その時。


黙した侭、釈然としない哀しい気持ちを抱いた心情を其の侭整った相貌に映し出した様な表情で、六合がゆっくりと薄い唇を開いた。




「七十年間見ていたのなら、知っているだろう。」

胸を焦がす、潰すような孤独感を押し殺した、六合の独白。

「何をだ?」

応えを返す、一見は、素朴な疑問を口にする時に似た、気の抜けた口調だった。しかし言葉裏に、「其れ以上言うな」との警告がちらつく。
だが、普段の薄い笑みでごまかしていた感情を、彼はもう隠そうとしない。真摯な声で、正面からを見据える。


「……俺は晴明以外に他の者に名を与えた。知っているだろう、だから――――――」




低く掠れた美声で、囁かれる。
の隣に青龍が居る事も見て見ぬふりならば、この場に他の神将が居ることも、況して自分の首から提げている飾りに風音の魂が混入している事実もあっさりと捨て去った。
言っては為らない、言うとして、何と告げる。同じ科白をまた紡ぐのか。其れすらも解らないまま、六合の口から言葉だけが毀れそうになる。
そう考えれば途端に、頭の中で警鐘が鳴り響いた。何を言おうとしている、止める声が聞こえるのに。
警告を無視した六合の本能は、一度は失ったものを取り戻せとでも言うように、無意味な科白ばかりを浮かべてくるがどれも使い物になりそうに無かった。
そうして、恐ろしいほどの沈黙ばかりが二人の間には落ちてくる。



落ちた静寂を繕うように六合から視線を剥し、黄金は、嘗ての記憶を呼び起こすようにうっすらと双眸を眇める。






「…【如何しても私に教えたければ、お前が一番最初に其の名を告げた其の後に、聞いてやろう】…確かにあの日そう言ったがな、六合、」




さて、如何拒絶しようか。子どもじゃあるまいに、まさか、同じ科白は通じまい。
真意の見えない小さな嘲笑が零れ、太陽に似た金眸が厳しく細められた。
その様に、六合を初めとした面々が息を飲む。誰も口を挟んでこない。
ただ、事の顛末を予期しているかのような勾陳だけが、唇の端をかすかにひき上げて無理やりに微笑みを深くする。
その瞬間、
――カタリ、と。
六合の胸に掲げられた飾りが、風すら起きて居ない閉じられた空間の中で、小さく反響しゆっくり動きを止めた。
最初其れは、確かに六合の首から胸へと掲げられていて、如何見ても普通の飾りだった。…見た目だけは。
だが、突如それは明らかに、の眼の前で宙に浮いていた。
まるで自分の存在をに認めて欲しいとでも言っているように、丁度…そんな高さにゆっくりと飾りが浮いてあえかな光りを燈し、直ぐに六合の胸元へと還っていった。



そして、ゆっくりとゆっくりと、の心に染み渡るように、声が響いた。









(初めまして、阿修羅の御子様。私は道反の大神と道反の巫女の娘、風音と申します。)

感情を抑えるためだろうか気の所為か、端のない世界に溶けるように霞んで消えゆような声は、少し震えて居たようにも思えた。


「…ほぉ、そなた喋れる程力が残っているか。流石だな」


は言葉に呼応し、揺るぎない金色の眼差しを、等しい強さで光を放つ六合の飾りへと定めた。
一瞬驚きはしたものの、すぐさま興味にすり替わり、それに従っては風音の次の動向を注意深く窺っているようだった。
六合や他の神将、晴明達は此処に混入している風音の魂がに語り掛けているなど知る由も無いだろう。頭に盛大に疑問符をぶちまけている昌浩を見れば判る。
息を飲む程の鋭さを持った金眸が六合の飾りを見詰めている様に、誰もが疑問に思う。一体如何したことか。
感情の知れないの面持ちに晴明は相貌の訝しみを濃くしたが、間もなく諦めを滲ませた吐息を放つと、ゆっくりと表情を綻ばせる。が六合の飾りに攻撃しないのだ、きっと邪気のある沈黙ではないのだろう。



そう結論付け、微かに笑んで、穏やかな声で晴明は告げる。

「御子、我等は席を外した方が宜しいですかな」

晴明の申し出に、気づいたように視線を向けて、無自覚に微か口の端を持ち上げ、
「いや、良い。直ぐ済むだろう」
とだけ答える。
黙って暫らく待っていろ、と暗黙の了解事項の様に言われた彼らは、思い思いに短い時間を潰していた。



昌浩は自分の知らない頃のをより多く知ろうと勾陳に彼是質問をし、晴明は其れに聞き耳を立てながら露樹の入れた茶に舌鼓を打つ。太裳は変わらず晴明の後ろでの動向を見守る様に見据え、もっくんは丸くなった侭興味が無いとばかり寝入り、青龍は訝しげに眉を顰め不機嫌を露にしたまま六合を睨む。
残された六合は、の瞳を見詰める。真っ直ぐで、何処までも澄んだ気持ちで。六合にはとても触れることの敵わない、気高い色をした意思ある眼差しを。





その最中、渦中の人物であるは、詞を解さず意識の中だけで、風音と会話をしていた。



(御子様、如何か、私の話をお聞き下さい。)



声色から切実味が感じられ、細められた瞳から縋る様な意思が伺えた。
見えぬ痛みに心を引き裂かれてでも居る様な風音の言い草に、何を其処まで焦るように言い募ってくる必要がある、話ならば幾らでも聞くぞ。そう揶揄するように、くつくつとが笑った。
所作につられる様、黄金が映える、鮮やかな青藍の装束が微細に揺れる。



(その名で呼ぶのは晴明だけで充分だ。で良い。)


それともあれか、同属嫌悪と云うヤツか?とさらりとした口調では言ってのける。
風音とて、日本の古来神の血を引く娘。血筋だけで云えば十二神将と対等かそれ以上になるだろう。
だが、相手がと為れば話は180度異なってくる。は神話の時代より受け継がれし、天界に住む阿修羅の血を引いた御子、云わば正真正銘の正当な神だ。
同属嫌悪等と云う安直な言葉で片付けられる訳が無い、相手は紛う事無き【神】を名乗るに相応しい血を持つ人物であり、格や存在価値はの方が数百倍も上を行く。
そんなから放たれた言葉に、見えては居ないが、慌てて風音はかぶりを左右に振る。くしくも、動揺は声を通じて齎された。



(同属だなどと…、恐れ多きことに御座います。いつか、御子様の眼前に馳せ参じた暁に、名を呼ばせて頂きたく存じます。故に…、今回は如何か、)

(…まぁ、良いか。時間もそう長くは無いみたいだしな。…で 、如何した、巫女よ)



存外、あっさりとは首肯する。 そうして、相手が自分の銘を呼ばうまでは、とも風音に習い巫女と呼ぶ事にしたらしい。
晴明のように、一生を名で呼ばぬ誓いを立てた訳ではない。暫らく時が経ち傷が癒え、もう一度この地に蘇る事が出来た日には、改めて名を呼ばせて頂きたい。
そう聖誓した巫女に、は再度心内に問い掛けてきた理由を尋ねた。すると、耐えるように閉じていた口唇を開いて、毀れた言葉は。




(…彩輝、と名を呼んであげて欲しいのです)



その風音の言葉を聞いた瞬間、の目が即座に鋭く細められた。
怒りを含んだような表情で六合の首から下がる飾りを睨み、無関係の六合でさえ、恐怖が真綿の様に心を押え付けて身体が云うことを利かない。魂だけの風音とて例外ではなく、空気が鳴る音でさえ聞こえるほどに、周囲の空気が緊張に凍りつく。
もう少しくだりを入れるべきだったか、余りにも性急過ぎて怒りを増強させてしまっただろうか、そう暗黙裡の内に問いかけ、続く言葉を風音は必死で模索する。
だが、張り詰めた空気は突如に溶解した。



(私には、その銘を呼ぶ権利は無い。)



勿論、の声に機嫌を損ねたような翳りが混じるが、致し方ない。
の発した言葉の真意が解らない訳でもなかった。
彼女の示唆することは、嫌というほど容易に知れた。だからこそ、風音は覚悟を決めたように本音を吐き出した。




(私は確かに彩輝から一番最初に名を呼ぶ権利を貰いました。でも――――判ったんです。判ってしまったんです。
彼の中に居続ける事によって、彩輝がどれだけ貴女を想っているかを、思い知ったのです。)



そんな言葉を吐きながら、が六合を決して選ばないことは判っているというのに、口惜しいと思う気持ちを風音は止められなかった。
いっそ、忘れさせてくれないかとさえ思うのに、この想いを、感情を、記憶を、魂を。全て無いものに出来たなら。
あの時手を差し伸べてくれたのが、六合ではなかったら。いや違う。
七十年前、気紛れな神が降り落ちてきた場所が、安倍晴明の屋敷ではなかったら。
七十年前、六合がに何の感慨も抱かないまま他の神将と共に在ったなら。
七十年前、と六合が出会って居なかったら。

………よりも先に、自分と六合が出逢いを為していたなら。

だが過去を悔やんだところで、との痛烈な絶対的差異を前に、風音は成す術が無かった。何よりもう出逢いは為されてしまったのだ、だから風音は全てを受け入れた。
手を差し伸べ護ると言ってくれた六合の言葉、これが嘘だったらいっそ良かった。しかし向けてくる気持ち、その全てが真実だと知っている。
だからこそ、想っても叶わず、願っても届かない。想った所で、どうする事もできはしない想いを燻らせた侭生きる六合を見ているのが辛かった。愛されること、傍に置くこと、身命をとして護ること、六合の願いは何も叶わない。
だからせめて、名を呼ぶことくらいは、赦しては貰えないだろうかと思う。




(……どんな理由があろうとも、人が人を想う心は止められません。御子様が彩輝の名を呼ばない理由が、私に在るのだとすれば、私も彩輝の名を呼びません。)

粛然と響くその誓いに似た返答を受けて、は眉を寄せた。

(それは何か間違ってないか?)

(されど御子様、嘗て彩輝と約束された筈です。一番最初に其の名を告げた其の後に、聞いてやろう、と)




沈鬱な表情で、風音は言い切った。見えてこそ居ないが、その表情と声音は、重く堅い。
それは、が予測していた中でも、最も回避しなくてはならない、最悪な事態だった。
だが、約束は約束、事実は事実。酒に呑まれた勢いで口走っただけだ、と言ったところで唯の愚痴にしか為らない事は判っていた。何とも面倒な約束をしたものだ、面と向かって言えない賞賛を胸の中で呟けば、自分に嗤いさえ込み上げてくる。




「判った、約束しよう。私は今日から六合を【彩輝】と呼ぶ……、此れで良いのだろう?彩輝、風音」


見るものの目を惹く整った綺麗な顔立ちが、半ば諦めたように意を決して淡々と告げた。
最後のの科白だけが明確な意思を持った言葉として吐き出されたのだから、青龍はあからさまに不機嫌の度合いを含め、怒りで眩暈を覚える。



(名を呼んで頂き…光栄に御座います、阿修羅の御子君、。またいつか――必ずや馳せ参じ致します。)


静かにゆっくりと呼吸をするように、風音の気配は完全に安倍家から消え去る。
其れを合図にでもしたように、頬杖をついた手で、目元で覆うよう。諮るようには目を眇めてくる。隠しようもない鋭さを突きつけながら、ゆっくりと自分を睨み上げる青龍に視線をくれた。




「―――――― なんだ、言いたい事でもあるのか」


見惚れるくらい艶やかな微笑を口元に乗せたの言葉が脳裏に届いた瞬間、微かな憔悴が垣間見れたが、しばらくの沈黙も置かず、薄く開く青龍の口唇。

「無い」



其れだけ告げて、嫌悪も驚きの表情もなく、鋭い眼差しで静かに六合を見据えてからゆっくりと青龍は浅い溜息とも取れる息を吐いた。
真意を名を呼ばれても、この男は到底今自分の居る位置に来る事は出来ないのだ。逆の立場を取れば、彼の苦しみが痛い程に良く判る。だからせめて、名を呼ぶ位許してやろうか。所詮、真意の名を呼ばれたところで、心までも手に入る訳でも無い。

こんならしくもない事を考えるようになったのは、やはり、七十年と云う年月と、に再会出来た所為だろう。青龍はそう、言い聞かせた。


























































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(C) 2002-7 The fanfictions are written by Saika Kijyo. update 2007/3/16