さあ、逃げろ、振り返るな。鬼が追って来るぞ (前編)




が居る地下140階は地下に存在していれど、外の世界と直結しているかのように窓からの景色を常に室内へと取り込む。
窓の多いこの部屋は普段、周囲の建物の少なさを教えるかのように太陽の光を取り込むが、今日は生憎の白夜。くわえて漆黒の折鶴が周囲に散乱しているものだから、余計に色味が少ない。
そんな鬱葱とした雰囲気醸し出す室内、が折った谷中五重塔夕桜柄が酷く印象深い。

斜め前の光景。
薄蒼の千代紙で折られた鶴に置かれた華奢な指先をじっと眺めると、肩が強張り、知らぬうちに鶴を握る指に力が籠もる。

「何だ、意外に器用だな、ルシウス。初めて折ったにしては上手いぞ?」
「流石に長官と同じ色の鶴とあっては、手を抜くわけにも行きません」
「誉め言葉と取っておくよ」

凛然としたアメジストが蒼瞳を射抜く。
懇切丁寧に折られた一羽の鶴を見ながら、ルシウスはぼんやりと頭の片隅で、初めてに出逢ったことを思い出していた。




出逢った時の衝撃は今でも忘れない。
伏せていた顔を上げ、そこに在ったのは薄紫に似た、菫のような眼差し。柔らかい色だと云うに与えた印象は、息を飲む程の鋭さ。

あのとき。出逢いが叶ってしまったあの瞬間。
今でも悔やむ、せめて自分の年が後五歳でも、上だったら。未来は変わっていたのかもしれない。




ルシウス・マルフォイがホグワーツ魔法魔術学校で知り合った友と共に魔法省への入省許可が下りたのは、卒業して暫しの月日をおいての事だった。
特別な意を以ってして決定した就職先でもなければ、興味関心が功を奏して超難関を突破出来たと云う訳でもない。勿論無計画で安穏と入れるような敷居の低い就職先でない事は、魔法界に身を置く人間なら一目瞭然。
為らば何故。簡単だ、唯、其れがマルフォイ家当主の希だったから、叶えてやったまでのこと。
敷かれたレールの上を走る列車で在り続けることを苦痛だと感じることはあれ、脱線しようとは思わない。
何よりも先ず、逆らうことが面倒な事だからだ。
だから大人しく従っていれば良い、ただ、それだけのこと。


そんな思いを馳せながら彼は、一般人には知られていない魔法省の正門を潜り、省員のみが立ち入ることを許されている敷地内へと歩を進めた。

春の、あらゆる存在に命が滾り芽吹く季節特有の、密度の濃い匂いがする。
理不尽な横風に嬲られ翻る魔法省の旗を視界の端に認めながら、つられる様に面差しを上げると既に緑濃く変貌を遂げつつある樹々が眼に入る。
此れから先、一体何年通うことに為るのやら、とルシウスは心中で独りごちた。
漆黒の外套に雪原の銀嶺を切り取った様にこの上もなく映える銀い髪、蒼い両眸。年よりも随分と大人びて見える、整い過ぎた容貌。
少しばかり時間が早すぎたか、と口唇から、もう幾度目になるかしれない短言が零れる。
魔法省入省式典、彼は新人として其の式典に出る予定である。先ほど門を潜り受付を済ませた際に渡された要綱と、自身が此れから先失敗を犯さなければ上り詰めていくだろう部門の系統図を手渡された。


―――――、性別女性。現魔法省長官で在り、魔法省始まって以来の鬼才、ボーバトン魔法アカデミーを主席三段階飛び級で卒業後、最年少での魔法省トップ入省、異例の速さでの魔法省長官に就任。


「(上司の上司が女だと?私が女の下で働くなど、冗談じゃない。)」

サムエル・リヴァイバル・ホールーン。
現地下136階系統を統べる魔法省高官であり、ルシウスの配属先の直属の上司である。
地下136階が何を主として居るのかは未だ知らされていないが、一つだけ判る事があった。魔法省地下130階なる部署は、世間一般的には知られていない。
魔法省の中でも選りすぐりの精鋭部隊として噂される地下130階を統括しているのが、先程述べた、
ルシウスの上司ホールーンの上司であり、ルシウスにすれば姿見る事さえないかもしれぬ雲の上の存在。
どの陣営が彼女を取り込むか、魔法省内の派閥は牽制し合っている。だが誰も彼女に手出しを出来ないのは、彼女があの魔法省大臣に匹敵するほどの力を持っているから、らしい。


馬鹿馬鹿しい、たかが女一人だろう。魔法省で生き残っているなど、一体どんな廃れた女だ、と興味の矛先は其処にばかりあった。
魔法省隠密の136階になど興味はない。早々に目ぼしい人材を見出し、職場移動を申し入れよう。誰が女の下になど付くものか。
思いながら鼻腔の奥にざわめく春の風を吸い込み、蒼眸を道の端に流せば、立ち並ぶ街路樹の根元に銀色に輝く「なにか」が落ちている事に気が付いた。
式典への路を急く足が僅かに緩まり方向を変え、街路樹の根元まで来て銀色を拾い上げ、「なにか」が「何」であるかに気付いた瞬間双眸を見開いた。


「(―――――階級章だと?)」

一般職の人員も階級章をつけるような世界だ、ルシウスもいずれつけることにはなるのだろう。
しかし、 魔法省に入省したばかりのルシウスにとって、手にした階級章がどの程度の地位を齎すものかは予想の範疇内ではなかった。
だがゴミ同然に捨て置かれて良いものかと聞かれれば、誰しもが否、と答えるだろう。
魔法省に於ける階級章は云わば、自分の地位権力を誇示する絶対的な証だ。
そんな重要なものが一体何故此処に、と視線をぐるりと上方へ仰ぎやった。そうして。


「――――少しの間、”それ”を懐に仕舞ってこの樹に凭れててくれないか?序に誰か来ても、知らぬ存ぜぬを通してくれ」

突如、頭上から玲瓏な女の声が投げられた。

「如何して私――――――――――っ、」

声調が僅かに乱れた事に内心で舌を打つ。
如何して私が、と抗弁しようとしてルシウスは頭上を見上げ、10メートルはあろうかという大木の枝に『誰か』が腰を落としている光景を見た瞬間、言おうとした言葉を全て忘却したように全てを忘れて立ち尽くした。

太陽を逆背にし、男の腕程度しかない枝に華奢な身体を乗せ挑む様に足を組み、群青と銀の薄いストライプが入ったシャツを羽織った女性が其処に居た。
抜けるように白い肌、心臓を掴み上げられたかの様な衝撃が走るほどに怖気を感じる整った美貌。そして何よりもルシウスを射抜いたのは、冷殺を伴う威圧を放ったようなアメジストに似た薄紫の双眸。
茫然自失と竦むルシウスに、微か女性の凄絶な美貌で不敵に笑んだ気配が伝わった。


「今ちょっと、鬼ごっこの真っ最中なんだ。如何しても見付かるわけにはいかない。」
「……この魔法省内で、鬼ごっこ、ですか?」

相手は幾ら女性であろうと、自分よりも一つ上の入省年かもしれない可能性を孕んでいようとも、ルシウスよりも社会人的に歴史が上に在る事は事実だ。
形式だけの敬語を用いて返答を返せば、「あぁ鬼ごっこだ」とわざとに作られた、冗談まじりの口調で返される。
何が楽しくて鬼ごっこなど、と思わなくも無かったが、少なからず自分より上の人間からの命令には従わなくては為らない。

暫しの逡巡の後、弱肉強食、弱くあっては生きる資格などないような場所で生き残るために必要なのは自尊心ではない、そう言い聞かせながらルシウスは手にした階級章を懐に差し入れ樹に凭れかかる。
休憩姿を装いながらルシウスは、視線を地面へ向けた。


「有難う、名も知らない君。」

無自覚に微か口の端を持ち上げ、枝の付け根に背を預けて腕を組む女性の声音は、暢気とも取れるほどに悠長な調子だ。
ルシウスが懐へと忍ばせた階級章と、其処に現れた内面を読ませない笑顔を湛える美貌の女性。
唐突に厭な予感がしたが、気のせいだろうと払拭する。

そうして、地位も名も知らぬこの女性と暫しの会話をしようと薄い唇を開いた。話題は別に、何でも良かった。


「いえ、差支えありませんから。…、ただ一つだけお願いしても宜しいでしょうか?」
「なんだ?私に出来ることなら善処しよう」


見上げなくても判る、柔らかい、苦笑。
鼓膜に忍んだ笑み息に、ルシウスの奥歯がぎり、と軋んだ。
女の扱いに慣れている筈の自分の理性とは裏腹、今まで出逢った事のないタイプの人間に、少なからずの興味を抱いていたのだ。

今思えば興味抱いたところで、何かが変わるわけではない。少なからず彼女は自分よりも階級も年齢も上だ、それを判っていながら、手を伸ばさずにはいられなかったのは………

このときから既に、彼女――――と云う人間に堕ちていたからだ。