さあ、逃げろ、振り返るな。鬼が追って来るぞ (後編)
もう細かい所までは覚えていないけれど、必然と云う空白に落ちたように、彼らは――――出逢った。
絶える事ない噴水の飛沫を横目に見ながら、応えてくる声が背後から聞こえ、ルシウスは乱れた髪を乱雑にかきあげる。
「実は魔法省大公会堂へ行く道に迷ってしまいまして。差支えなければ、方向だけでも教えて頂けませんか?」
「―――――なんだ、君、新入生だったのか?」
空から零れる様に降ってくる暖かい声が紡ぎだす旋律は、耳に心地よく聞こえた。
思えばホグワーツを卒業して以来、こんなにも穏やかな空間の中で人間と話すことなど無かったかもしれない。
だから、だろうか。驚きを露わに、ルシウスは眼を見開く。
「え、えぇ。」
「配属先は決まったか?魔法省は常に最高のもの(人材)を求めるからな。一番最初の配属先で君の価値が決まる」
「貴女を前に言う言葉では無いのかも知れませんが、何故私が女性の統べる階に配属など―――――」
「女性の統べる階?」
「……地下136階、と聞きました。もし私の価値が、、」
どうせ一度逢ったきりの関係になるのだ、と女性を尻目に、侮蔑に呟くように落とされた台詞は、一変して剣呑な響きを醸し出す。
しかし其の言葉を聞いた瞬間、女性の眼が即座に鋭く細められ、そうして値踏みでもするかのようにゆっくりと不敵に微笑み返した。
「地下136階か、其れなら――――――」
言い掛けて、女性は口を噤んだ。
空間を占拠する気配が変化したのは、刹那だった。
如何したものか、とルシウスが上方を見上げようとした瞬間、けたたましい足音が後方より響く。
何事か、と視線を擡げれば10名程の魔法省省員―――其れも全員がきっちりと外套を身に付け胸元に様々な階級章を引き下げながら、満身創痍で此方へ全力疾走してくるさまだ。
そうして駆けて来た黒い集団は眉を潜め、樹に凭れるルシウスを見付けて声を挙げた。
「其処の新人!女性を探している!この付近で誰かに逢ったりしなかったか?」
きっと、この樹の上に居る女性を指しているのだろう。
勿論真相を洗いざらい話しても良かったのだが、生憎とルシウスは先程女性と「約束」をしてしまっている。
約束を破る、という事は余り得策でないのはプライベートよりも仕事上でのほうが勝る事実。
ルシウスは眉根を寄せ、一つ息を吐く。
「いえ、私は………、」
だが次の瞬間、ずるりと布ずれの音と共に、漆黒の外套がひらりと空を舞いすとんとルシウスの真横に落下した。釦の掛け違えが始まったのは、このときから。
彼等の視線は勿論一旦は外套に向き、其れから如何して外套が、と目的を孕んだ視線で上方を見上げる。
ルシウスまで一緒になって見上げてしまったのは誤算だったが、見上げた先で、一瞬だけ焦燥を見せたが直ぐに喰えない笑みを深めた女性と眼が合う。
ルシウスは軽く眼を見開いて、息を呑む。女性は間違いなく、ルシウスを見ていた。
高さの沈んだ薄紫眸に真っ向から射され、反射的にルシウスの咽喉奥へ吐息が絡まる。本物を溶かし込んだような色は、他に見た事がない。
――深い深遠の、紫水晶の双眸。
そこに在る光景は、予測していた筈だった。けれど。
「長官!!此方にいらっしゃったのですか!もうじき式典が始まります、どうかどうか――――」
樹の上に居た女性に気付いた一人が焦燥しきった声色で叫んだ声に、ルシウスは具に言葉を失い、そして本日何度目を数えるか知れない、大きく眼を見開いた。
「ヤバイな、見付かったか。」
唯、ひとこと。言い放ち。
やや柔らかい紫の艶めいた美しい双眸、一片の光も射さない様な深淵を思わせる漆黒の帳の様な髪が舞い、しなやかな肢体を駆使して翻るように飛び降りてきた女性が、ルシウスの隣に存在していた。
紫だと思っていた眼が、薄紫のような菫の色なのだと知ったのは、その時が初めて。
「さあ、逃げろ、振り返るな。鬼が追って来るぞ」
「で、ですが…」
女性――――現・魔法省長官・は、俊敏な所作で落ちた外套を引っつかみ、言葉を無くして立ち尽くすルシウスの腕を掴んで駆け出した。
引き摺られる様にルシウスもの所作に倣うが、勿論彼らが見過ごす筈も無く、切れている息其の侭に後を追い駆けてきた。
「別に良いぞ?此処で私と一緒に逃げなければ君は私を庇い立てした罪を着せられサムエルに叱責を喰らい最下層部門への左遷は確定だ。だが私と一緒に逃げ切れば、君はちょっとした有名人に為れる」
「……有名人、ですか?」
「あぁ、『あの・を捕まえることが出来る数少ない人間だ』とな。どうせ入省式典へ向うのだろう?」
艶然と畳み掛けるように狡猾さの揺蕩る薄紫瞳が薄く眇められた。
約束は守るからな、とその選択肢しか無いと刷り込み断を強いれば、ルシウスのとる行動はもはや路が敷かれているが如くであった。
と共に魔法省を駆け抜けながら、ルシウスは先程の失言を如何撤回しようかと其ればかりを考えていた。
よもや隣に居る女性があの「・」だとは思いもせず、況して魔法省長官とも在ろう人間が部下の追跡を掻い潜って式典をサボタージュしようとしているなど、誰が想像しようか。
「はい、お願い致します。ところで長官――――先程の、」
懸命に追い駆けてくる自分よりも上位の立場の人間を尻において持ちかける話題であるとは到底思わなかったが、謝罪のタイミングは今しかない。
だが言いかけた言葉の先を予測したかのように、透明な声色が被さる。其れも、視線ごと絡め取る宝石のような艶をもつアメジストの瞳で微笑まれながら。
「上官が女だったと慨嘆するのはもう少し後にしておけ。私はお前を後悔させない自信があるぞ?」
「……………………………は、?」
其の一瞬、ルシウスは確かに何を言われたのか理解できなかった。
軽く眼を見開き、確かな驚きの表情。
ルシウスは自分の上司の更に上司を侮蔑罵倒したのだ、別な意味での左遷を覚悟していた筈だと云うに、全て許して「取り敢えず黙ってついて来い」と言ってのけるに呆けた言葉しか出ない。
「言葉の通りだ、まぁ見ておけ、厭でも気付く事になるだろうよ。ところで君、名は?」
自惚れでも自嘲気味の笑みではない、確固たる自信が生み出す、視る者を灼き心脈を震えさせる毅然とした笑みだ。
彼女が持つ鎖の先は、自分に繋がっている。掴んだままか、手放す事になるか、それは彼女次第。
心を奪われた。一瞬で。それ以上でもそれ以下でもない、確かにこの瞬間、この背を追い駆けようと。
「ルシウス・マルフォイと申します。」
「私は・。魔法省130階から140階を統べている……なんて暢気に自己紹介している場合じゃないぞ、ルシウス。見てみろ、偵察梟の大群が襲ってくるぞ!」
微笑いながら、一際視を惹いて薄明るく浮かび上がっている開けた大扉、内側から光の射す方へと駆け始め身を滑り込ませた。
約束通り、入省式典にルシウスを案内したは其の足で、彼女の為に用意されていたのであろう豪奢な椅子に華奢な身体を預ける。
先程までの愉しげな表情、勝ち誇った不敵な笑みは剥離し、厳しい表情で無言で新省生を見下ろす。
よっぽど猫をかぶるのが巧いのか、それとも此方が真実の貌なのか。
口元にどれだけ微笑みを浮かべようと、眼は底知れない暗さと獰猛さを湛え。そう、彼女の髪宿す色合いは漆黒、目を瞠るように綺麗な菫の双眸。
「其れでは最後に、我が魔法省が誇る最高の逸材、地下130階領域を統べる魔法省長官よりお言葉を――――」
司会者が振った科白を最後まで聞かず、彼女は悠然と立ち上がり、コーネリウスを押しのける様に壇上に登る。何処か峻厳な印象も、の透明な硝子に似た意思と相まって、それが彼女ならではの独特な色香を醸し出していて。
……けれど、出遭った先程の彼女とは異なる、今の彼女から漂う、このけぶるような色香と強烈な威厳は、一体何なのだろう。
だが、即座に気付かされる。
きっと自分よりも遥かに高い、野望が胸の内に。
「魔法省は愉しいぞ?どんなことを仕出かしても、其れに見合う『仕事』が出来る能のある人間は生き残る。
―――――そうだろう?ミリセント」
現・魔法省大臣に向って不敵に微笑みながら、宣戦布告のように其れだけを一息の元に言い放ってもとの位置に付く。
新省生は茫然自失、魔法省員は皆「また始まった」と嘆息し。大仰に眉間の皺に指を当てている者まで。
だが、座っているは、自分を見上げて来る様々な両眼をからかうのが楽しくてたまらないと物語っている。
ミリセントは苦笑するも否定せず、余裕の微笑み引き下げたは、生かさず殺さず弄って遊ぶのが楽しいのだとすら公言して見せた。
そしてふわりと、憤慨する下っ端を懐柔するような柔和な笑みを形造ってみせる。
【貴女を誰の前にも跪かせない、貴女の背だけを護るために私は上へ伸上がろう】
気まぐれに思った脆い願いは出逢ったあの頃、今はもう決意であり誓いであった。
無理だというのはよくわかっていたが、願うだけならいいだろうとも思い、言葉をずっと胸の内に抱きかかえていた。
これが、一番最初の出逢い。それは、春が到達したばかりの、深き季節。
心に何時までも消えない灯を灯した、懐かしく愛しい存在との邂逅であった。
「………ルシウス?お前、私の話を聞いているのか?」
不機嫌そうな声色がルシウスの耳元には届いた。
勿論、不機嫌を装っているのではなく、実際今猛烈に不機嫌なのであろう。
穏やかさなんて微塵もない、鋭い薄紫の眼差しが目の前にはある。ふと思い出した懐かしい情景をまさか、鶴を折りながら言う事になろうとは、ルシウスも思っていなかった。
「長官と出逢った日のことを、唐突に思い出したのですよ。」
告げれば、悪辣無比な微笑みが返される。即座に、胃薬を飲んでおくべきだったと、後悔する。
「どうだ?やっぱり上司が女で後悔したか?」
美しく微笑む凶悪な女神に、視線で降参の意を示しながらも、ささやかな皮肉を贈呈する。
「後悔ならば毎日しておりますよ。渡す書類の順番を間違えなければ、貴女がこの部屋から抜け出す必要は無かった、とか。ですが、逃げ出そうと思ったことは一度もありません、幸いな事に」
「逃げ出しても構わないぞ?」
尋ねる視彩は、明らかに悪戯な光を帯びている。
「精一杯逃げろよ?私が鬼になったら逃げ惑うのは其れはそれは至難の業だ」
今まで誰一人として逃げ切れた存在は居ないがな、と喰えない笑みを揺蕩らせて。
(そんなこと、疾うの昔に心得ております)
暫しの沈思を置いて、薄蒼のひかりが幽かな呟きを地に落とし。
出逢い、幾ばくかの時が過ぎた今となっても、焦がれているのは自分の方だ。
只管に恐れるのは、溢れた想いを零れさせてしまう事。そうなれば、全てが終わる。
彼女から逃げ惑うなど、笑止、彼女こそ一番に捕まってはいけない筈だったのに。
突き崩し逃げ延び失笑してやりたいが、有効な手段が見当たらず、到底逃げ延びられる筈も無い。
――――――……逃げるつもりも、ないのかもしれない。