足りないものは生きる覚悟
荒れ狂う風、黒々と塗り固められた空に打上げられるモースモードルを脅えた表情で見上げる魔法省高官連中には、ほとんど軽蔑を覚えた。
既にヴォルデモート卿の息が掛かった人間の一人や二人は、魔法省内部に雑じっている事にすらも気付かない能天気さに、瞳を歪める。
デス・イーター達が私欲と雪冤の為に、マグルに加担する魔法省高官を襲撃する、と云った物騒な出来事は今に始まった話ではない。
は魔法省に入省した時既に、あらゆる意味での【覚悟】を用意していた。
他者を蹴落とす覚悟も、他者に蹴落とされる覚悟も、誰かを裏切る覚悟も、誰かから裏切られる覚悟も。
魔法省に牙を向ける存在が正であれ悪であれ、全て排除し殺す覚悟も、傷付く覚悟も、死ぬ覚悟も。
死人を見る覚悟も、女子どもを容赦なく突き放す覚悟も、護れなかった人間を見殺しにする覚悟も、何もかも。
けれど、一つだけ用意していなかった【覚悟】が有った。
元来、他者を出し抜き誰かの座を実力で奪うのがセオリーの魔法省に在るからこそ、想像もしなかった種類の覚悟。
必要の無いものだと思っていた種類の覚悟が必要に為った、としらしめられた時、は正直狼狽した。
(私の知らぬところで死ぬなんて事が、お前に許されると思うか!?)
(部下が上官を護らぬ理由など、あろう筈が無いと思いませんか?)
(そう云うのを屁理屈と云うんだ、莫迦者!!)
感傷などは意味をなさない、障害になるものは全て切り捨てる、排除してでも進まねば道は開けない。
其れだけを意に、此処まで這い上がってきた。だから、この手で守れるものなど限られている。
そう、は護る側の人間であり、が護るべく人間から命がけで護られる覚悟など、必要なかった筈だ。
「長官、ルシウス・マルフォイ様が今朝方魔法省正門付近で反逆者と思わしき人物に―――――」
強い消毒液の匂いが充満する中、皆一様に顔色を無くし、無理に誂えた表情を作りこんでいる。
静電気のようなぴりぴりとした緊迫感、そして行き場の無い嫌悪、蔓延る絶対的恐怖。
誰しもがの姿を見付けては敬礼し、頭を垂れるなか、彼女はそのどれにも視線を送る事無く終始不機嫌を貼り付けたまま廊下を闊歩する。
険しくした眼差しにただ力ばかりを籠め、普段よりもキツク鳴るハイヒールの音が苛烈さを滲み出させていた。
「どうやら長官と見間違われて、正面から攻撃魔法を受け、医療班では対処し切れずに緊急医療センターへ搬送されたとの情報が――――――」
遠慮も場所すらも忘れ、ネームプレート一つ掲げられていない最奥の部屋の前で呼気すらせずに、扉に手を掛け開きかけた部下を退け問答無用で蹴り破る。
「長官、お待ちくださ――――」
背後から聞こえる静止の声を無視し、室内に踏み入れば、窓辺で白い遮光布がたおやかに爽風を孕み、翻っていた。
緩く談笑していたであろう、ルシウスとルシウスの看病に来ていた数人の部下が、凍りつく風景。
は停滞しているような世界の中を無言で歩き、ルシウスが身を委ねているベット脇まで近づいて、乱暴に手を伸ばす。
敢えて包帯の巻かれたほうの腕を捉え、シーツの中からルシウスを引き上げるように、無理やり自分自身のほうへ引き寄せた。
「…………っ、……、長官………」
掴んだ腕が痛むのだろう、苦悶の表情を浮かべながら、其れでもルシウスはに頭を垂れる。
剥き出しの腕は氷のように冷えて、流しすぎた血の所為か、顔色までもが仄白い。けれども刹那、ルシウスから漏れた息はかみ殺される。
「あぁ生きていたのか、ルシウス・マルフォイ。良かったな、私を庇って死んだ等と云う事態になったら、マルフォイ家当主を選びなおさなくては為らないからな。勿論、お前の後を担う優秀な部下も選任し直し、無駄な仕事が増えるところだったよ。」
「長官、……お怪我は、?」
「怪我?する訳無いだろ、何処かの阿呆が勝手に私の身代わりに為ったらしいからなぁ?」
「……それは、なにより――――――っ、」
ギリ、と締め上げられる指に、息が詰まる。
愛し焦がれる鋭い眼光が自分を射て、厳しい眼光なのにルシウスは心地良さを感じる。
夜明け間際の空闇よりも深い、底の見えない彼女の菫色。
その頑なさに飲まれないように、同時に目線を逸らすまいとじっと睨みつけるように見つめる。
「何より?生憎だが、私はそこ等の女とは違う。私の身代わりになって魔法を食らえ、と誰が命じた?」
「部下が…上官を護るのは筋違いだ、とでも?」
「上司が部下を護るのが筋だ」
真っ向から上級魔法をぶっ放され、真正面から受けた攻撃によって、ルシウスは右腕の損傷と肋骨を数本折る怪我をした。
骨折すら魔法で直せる素敵な世の中だ、命に別状は無い。だが、魔法薬が染み渡り完治するまでに二日は掛かり、其の間彼に蔓延る激痛は否めない。
今も鈍痛に苛まれていると云うに、何故か、ルシウスは表情を崩さない。
の指先が、怪我した腕に食い込み痛苦で苦しんでいる、その最中に。
ふ、と口許に愉快そうな微笑を灯した。
「貴……様っ、笑ってられる状況だとでも思っているのか!?」
ルシウスがの部下に成り下がって、二年。
部下を叱責するさまも、怒髪天に近い形相で睨まれ咎められた経験もある。清廉な表情は昔と、何一つ変わらない。だが、明らかにルシウスが見てきた今までの彼女と違う色が、其処に在った。
気丈に声を張るの声が、怒鳴るようであり今にも泣き出しそうなものだったように思えたのは、錯覚なのだろうか。
右の手首を折れる程掴まれて、僅かな抗いも許されないこの状況。逆らえば、本当に折られるだろう。
判っていた、だか口を吐いて出たのは、自分でも呆れる程の科白。
「私は――――長官を置いて死んだりはしませんよ。」
僅かに、が短く息を吸い込んだのが判った。あぁ、やはりかと満足げにルシウスは口の端を吊り上げる。
尤も、に気付かれない程度、本当に些細な仕草で。
今までどれ程自分が貴女を見てきたと思っている、甘く見ないで頂きたい。誰よりも慕い、誰よりも焦がれた相手だ。貴女が私を思ってくれている以上に、私は。
「地獄の果てまで共に歩む覚悟が、あるのですから」
薄蒼の迷い無い双眸が気にいらない。
上官であるがこんなにも腹を立てていると云うに、今の状況を当然のように受け止めている、この男の覚悟が気に入らない。
眼奥に、揺るがない決意を灯して見上げてくる眼差しに、合点がいった。
に足らない覚悟は、自分を慕う者を引き剥がす、覚悟。
いや、違う。
そんな単純な覚悟ならば、昔から心得ている。為らば、自分の為に誰かが死す事を受け入れる覚悟か?
其れも、違うだろう。
ルシウスが望むのは、地位でも、金でも、名誉でも無いだろう。そんな安っぽいものならば、幾らでもくれてやる。ただ護る為の立場を欲しての事だ。それも自分の為だと知っている。
は片手で目元を覆い、隠した。一瞬だけ、きつく瞑られた両眼。だが直ぐに引き剥がし、
「――――だったら、」
は言いながら、腕に食い込ませた指を引き離し、双眸を覗かせて嗤った。
「生きろ。そんなに私と地獄へ堕ちたいなら直々に連れて行ってやる、だから其れまでは無様に死ぬことは許さない。」
この人は、自分の上官は。生きる、と云う事に殊更無関心だ。
私利私欲の為だけに生きようとする純血一族の中では嫌煙される存在、部下よりも自分の命の方が大切だ何て口先三寸。
経歴を洗い直し怪我の経緯を調べて浮んでくる、部下を庇っての怪我。誰かを庇って怪我をする事など馬鹿馬鹿しい、と揶揄する位ならば、有言実行を見せてくれ。
誰しもが貴女の傍を離れず貴女を護るのは、貴女の盾に為りたいからだ。庇われる部下に為りたいからではない。
「……その前に、必ず【生きる】と約束して下さい。私が貴女の下に居るのは、貴女に護られる為ではありません」
貴女がこの世界から消えたら、私は誰の背を護り誰に忠誠を尽くし、誰を想い誰を愛しめばいい?
生きる理由、を勝手に失わないで欲しい。
「貴女の下で、生きるためです」
細い咽喉と口唇が、からからに乾いてくる。
胸のざわめき、嫌な予感、持たねば為らぬ覚悟とはこれだったのかと、はようやっと思い知る。
途端に、息を吐くように、の口から嗤いが漏れた。それは自身を嘲笑うものであったか、ルシウスを罵倒するものであったのか。
「だったらお前も生きて、其の約束が遂行されるかを見届ければ良い」
なぁ、ルシウス。
其処まで私に「生きる」覚悟が足らないと知らしめたいならば、生きて、教えてくれ。
答えはそう、誰よりも、私が唯一心許したお前だけが知っているのだから。