貴方の幸せを想う時、私はいつも泣きそうになる。その温かな空気の中に、私の姿が無いからだ (後編)
西の山並みに消えゆく小さな二つの背中を名残惜しげに見送り、朧な影が視界から完全に消失した頃。
「今日は助かったよ。貴重な休日を潰してしまって悪かったな。」
「いえ、私も良い気分転換に為りました。もうじき陽が暮れますが…そろそろホテルへ戻りますか?其れとも、他に寄る場所でも?」
問えば、黒眉に皺が寄り、菫の双眸が眇まる。
「…済まないが、ホテルへは一人で戻ってくれるか?私は家へ帰る羽目になった。」
辺りに舞う白詰草の花びらに抱かれるように黒糸の束を振りなびかせて、は存外素っ気無く言い捨てた。
熟れた太陽のした、深ける夏の乾風は澄み、確かな熱陽光の温もりを孕んで絨毯のように敷かれた白詰草を梳く。
太陽が翳る山並みに背を向け、歩を踏みしめる毎に、甚振られた草が擦れて拉げた囁きを立てた。
放っておけば徐々に開くとの距離を埋めながら、ルシウスは其の背に向かって答えを返す。
もっとも、一欠片たりともの投げた問いへの返答など含まれてはいないのだが。
「何時まで、猶予がありますか?」
「――――猶予、か。まるで、死の時を待つ死刑囚のようだな。」
マグルの世界に二人きり、そんな甘やかな情趣を欠いたルシウスの言い草に、くつくつとが笑った。
夜空の帳の様な漆黒映える、鮮やかな緑の生地が微細に揺れ、唐突にが足を止める。
見上げたのは、トマトの様に真っ赤に熟れた夕陽。
「そうだな、あと二時間程度は余裕だろう。…大体、父親と誕生日が一緒だ何て、最悪な運命だと思わないか?」
腹の底から息を吐きたい衝動に駆られているだろうに、そんな素振りは一片も見せずさらりとした口調で、そう言ってのける。
大方、毎年叶えられていたささやかな願いは、ほんの数時間に過ぎないのだ。推測するのは難易ではない。
と、為れば。
敢えてホテルを取る必要性など無かったのでは無いか。其れとも、以前のように家の人間に激昂されることを承知した上での行動か。上手い言い訳が思い浮ばなかったか策略が露見したか。
……いや、今はの思考を推測している場合ではない。
いずれにせよ、ルシウスが片眉を僅かにつり上げた事は事実だ。限られた時間はあと、二時間しかない。
二時間、ごく僅かな時間で、一体自分に何が出来る?
今日誕生日だと云う上官に対して。
霧雨のように穏やかに胸裡へと沁み入る、恋情を抱き始めた、上官に対して。
叶わない思いの錯覚を、ルシウスのプライドは拒んでいる。
だからきっと、か細い腕を無理やり掴んで引き留めたいとは、思わないのだ。
「………長官、私も共に帰ります。駅まで無事にお見送りするのも部下の勤めです。……が、」
明らかに言い訳染みたそんな前置きを追うように、力無い苦笑が振り返ったの面に揺蕩る。
「あぁ、そうだ。移動時間も勿体無い事だし、幸いな事に今日は天気も良い。
此処で時間を潰してポートキーで帰るとしようじゃないか」
『一緒に帰ろうか』なんて野暮な科白を吐く事無く。傾きかけた橙の太陽を、は見詰めた。
日中と違い、真っ直ぐに見ても、目が潰れる事はない。そんなを見詰めながら、共に居られるのならばマグルの世界だろうが墓場だろうが構うことは無い、とシニカルな形に口唇が吊り上げられる。
あと二時間、どうやって過ごそうか、とルシウスが思慮し始めた頃合と時を同じくして。
「……長官?何をしていらっしゃるのですか?」
動きを不自然に止めた彼の上官は、一つ微かな笑息を吐いて、重圧背負う華奢な身体を地面へ投げ出していた。
仮にも魔法省長官…基い、あの家令嬢ともあろう人間が、と。
深い呆れの溜息吐きたい衝動を堪え、眉間に寄る皺に指を沿えて、草間に寝転ぶ上司を見下ろせば。
空を見詰めるの眼差しが酷く穏やかで、拍子抜ける。
「此処は、マグルの住まう世界だ。許可が無ければ魔法は使えないし、誰も私が【魔法省で長官】遣っているなんざ知らないし、純血旧家家なんてものも存在しなければ、マルフォイ家も無い。
私は唯の人間で、お前も独りの人間でしかない。偶には――――こう云うのも許されるだろ」
季節の香を乗せた微風が時折、ルシウスの銀糸をそっと揺らし、の解けた髪が嬲られる。
それとな、と。
語る口調に滲む笑みが微かに苦く、水溜まりに落ちる雫の様に、深く色合いを変えた。
「空から見れば所詮私達なんざ豆粒並みだ。幾ら抱えているモノが重く大きかろうとも、所詮は豆粒に米粒が付いている程度の差しかないだろうよ」
其の科白が余りにも、ルシウスの想像する上官の思考回路から導き出された結論と似通っている事が可笑しくて堪らず、揶揄う雰囲気を纏わせてルシウスも隣へ腰を落とした。
「白詰草で思い出したのですが…四葉のクローバーが何故出来るか知っていますか?」
「――四葉は、通常は三枚の葉を付ける筈の白詰草が人に踏み躙られ、成長点を傷つけられた奇形種だ。」
「ただ当り前にその草を踏んでいく人間が作り出した産物の何処に…『幸せ』なんて見出せるのでしょう」
端的に告げ、節くれ立ってはいるが男にすれば綺麗な部類に入る指先が、さり気ない所作で白詰草を掬い絡め取る。
何の事前調査も無く引き抜いた其れはやはり、同じような葉を三つ付けたクローバーでしかない。
人間が踏み躙った所為で汚れ、葉を一枚増やした挙句に引き抜かれる運命にある、四葉。
本当ならば誰にも傷つけられず傷つく事無く、皆と同じ三つの葉を付けた植物に成れたかもしれないと云うに。
本当の形で成長出来なかった、哀れな葉の、一体何処に幸せが宿るというのか。
「別に四つ葉でなくても良いんだろうよ。
幸せは普遍じゃない、時と共に薄れ逝く時もあれば濃く色づく場合もある。だがどちらにしても、其の『幸せ』は何処にでも転がり落ちているわけじゃないし、望んで手に入るようなモノでも無い。
限りなく【皆無】に近い状況で、『幸せ』とは程遠い位置からでも渇望し切望する。元に戻ることなんて叶わないかも知れないと云うのに懸命に抗う、『四枚目の葉』と同じように、自分を投影しているのかもしれないな。
若しかすると、ちゃんと成長できた『四枚目の葉』と同じように、自分にも幸せが来るかもしれない、と」
「…………私に四葉を渡したのは、もっと自分の下で足掻けと云う厭味を籠めて、ですか?」
そう返せば、上官はその答えを予想していたかのような風情で苦く微笑した。
「四葉のクローバーの花言葉を知っているか?」
「幸せ、ですか?」
「あぁ。お前も其の四つ葉のように、誰かに踏み躙られようとも、気合と根性と『自分であること』のプライドで這い上がれ。お前を嘲う奴等を失笑しながら蹴落とし、絶対的地位を確立して――――そうしてお前は幸せを手に入れろ、ルシウス」
息を、呑んだ。
上官の、言葉。口調は普段と変わらなかったが、逃れることを決して許さない響きがあった。
自分と同じ道を歩かされている筈だのに、明らかに自分とは違う、迷い無く、逸らされることなく向けられる瞳。
見上げれば、その菫に揶揄う色は無い。刺々しい毒の様にも間違った教育方針の様にも取れる科白に、口唇から笑息が零れそうになる。
「宜しいのですか?私が絶対的な地位を確立するということは、下克上なのですよ?」
決してが長官の座を引かないことを判っていて、挑発するように問いかけを為した。
なのに、
「――――――お前なら出来るさ、いろんな意味で…私が、愛した(おとした)男だからな。」
取り返しのつかないような言葉を、苦笑いを浮かべながら、何故そうも口にする。
今言った言葉を、其の想いを、後悔させてやろうかと、胸の内で衝動が沸き起こった。それはまるで嵐のような感情で、何度も咽喉が鳴り、腕の中に閉じ込めたいと。
だが情欲に塗れた思考回路とは裏腹、渇いた喉を震わす言葉は何一つとして零れては来なかった。
さて、この重たい沈黙を如何しよう、と。
まるで幻を見ているような眼差しで地面を見れば、其処に―――――。
「色々と……考えたのですよ。」
「考えた?………何を?」
「日頃迷惑を掛けている上官へのささやかなるお礼に、一体何を贈れば良いのだろうか、と。
文武相応な品を差し上げた処で家へ持ち帰れることも無いでしょうし、かといって、花を差し上げたところでお父上に激昂される事でしょう。ですから、誰しもが、『プレゼント』だなどと思わないものを。」
花やアクセサリーや洋服、『モノ』をあげればどんな結末が待ち構えているか、など自分の身に置き換えて、考えてみれば一目瞭然だ。
其れ相応の地位と権力に果てない財力、そうして婚約者ある者に、モノをあげたところで、迷惑なことこの上ない。
自分でさえ、誕生日に様々な人間から物を貰う其の度に処分に困り、結局は破棄するか委ねるかのどちらかだ。だが、判っていても、如何しても『何か』を贈りたかったのは自分のエゴだろう。
生まれて初めて、そう、思えた。
贈ったところで棄てられる品物ならばいっそのこと――――――
落とした視線の先には、四枚の葉を付けたクローバーが在る。
無造作に引き千切り、寝転び空を眺めた侭のの眼前にずいと差し出した。
「私は、貴女の下で『幸せ』に為りたいのですよ――――長官。」
そんな言葉を吐きながら、が自分を決して選ばないことは厭と云う程理解しているというのに、欲しいと思う気持ちを止められなかった。
差し出したクローバーを踏付け詰り、罵声の一つでも浴びせてくれれば、悪い夢も覚めるだろうに。
「ルシウス・マルフォイ史上嘗て無い値段を誇るプレゼントだな」
「こんな安上がりなプレゼントは、・史上嘗て無いですね」
真っ直ぐに見つめてくる、純度の高い紫水晶の両眼。
華奢な指先で四葉を受け取り、緩やかに破顔して、胸ポケットに仕舞いこむ。
「安い?冗談、私の幸せが安いわけなど無いだろ。言っただろ?金で買えるものに価値なんざ、無いんだよ」
逃れられない。
いつか自分が魔法省を去っていくまで、いつか彼女が魔法省を去っていくまで、決してこの瞳から逃れられないだろう。その瞬間に、ルシウスは確信した。
愚かにも囚われてしまったのはもう、大分以前から。
想った所で、どうする事もできはしないし、敷かれたレールの上に転がる未来は変わらない。
想っても叶わず、願っても届かず、望んでも手に入らない。
これは灰にしなければいけない恋着だ、禁忌の恋などと戯言を、ロミオとジュリエットの方が未だマシだ。
なのに、
「二人で共に足掻きましょうか。悲劇を受け入れ這い上がった、四枚目の葉のように」
願う言葉を口の中に、閉じ込めながら言えば、の口元にはすぐに不敵な笑みが舞い戻った。
「当たり前だろ、未だ逃がしはしないからな、ルシウス。」
好きだと伝える事すらも出来ぬ自分は、の下で忠義に尽くすことだけが、せめても今出来る事。
ただ、みっともなく足掻くばかりの世の中も、貴女が傍に居るなら少しは悪くないと思い始めた、夏の宵。