貴方の幸せを想う時、私はいつも泣きそうになる。その温かな空気の中に、私の姿が無いからだ (前編)




空を見上げることさえ侭ならず、帰らぬ者を只管に想いながら。
嘘を吐くときの彼女はいつも、心の中を見られまいと、完璧に綺麗な笑顔を浮かべるのを知っている。
昔も、今も、そう。変わらずに。
顔で嗤って心で啼いて、内側から侵食されるように病んでいくその様は、茨に身を預けて眠ることとどう違うのだろう。

全て棄ててしまえば楽なのに。如何して眼も心も酷く冷めた状態で、神に縋る亡者のように、微笑うのだろう。


幼かったあの日、私は確かにそう、疑問に思っていた。
そうして自分もいつか彼女のようになると、知らないまま、大人に為った。





日々変わらぬ仕事をこなしながら、ふ、と昔悩乱したかの様に毎日繰り返し繰り返し考えていたことを思い出したのは、机の上に置いた一つのカレンダーを見てから。
スケジュールは毎日必ずルシウスが告げてくるし、何をするにも何処へ行くにも誰かしら部下が付いて来る故、は自分自身で自分のスケジュールを把握する必要性は無かった。
魔法省に入りたての癖が抜けず、長官に就任してからも率先して動いたものだが、「そんな時間が有るなら仕事して下さい」と柳眉を歪めて小言を言われれば従うしかない。
魔法省長官とも在れば、其れなりの地位も名誉も権力も持つ。それらを行使して云う事をきかせるのもまた一興だが、にその気は無い。理由は単純、命令するよりも従っている事の方が何倍も楽だからだ。


「もう、そんな時期か……月日が経つのは早いな」

手元の羽ペンを置き、お飾り程度に置かれたカレンダーを掌で掴みあげて、ふと思う。
陶器の様に白い肌の上、黒と青で縁取られ、日付が打たれた簡素な作りのカレンダー。特別何も仕掛けなどされては居ない。
其れをじっと見つめ、何かを思い出したように、唐突に思いついた。口元が緩むのは最早、癖と言えるだろう。


「ルシウス、実は今週の日曜日、私の誕生日なんだ。急いで出張申請を出しておいてくれ」

本日中に終えねばならぬ書類にサインをし終えた羽ペンを手近の紙で拭い、ペン立てに収めて再びカレンダーを見上げれば、怪訝そうな薄蒼と克ち合う。
星を寄り合わせて作った様な銀色の長髪を僅かに揺らし、視線が絡んだことに観念したか、彼の端麗な唇が呆れを纏わせながらゆるく弧を描いた。


「………態々誕生日に出張などされなくても良いのでは?」
「いや、誕生日だから出張したいんだよ、私は」
「………失礼ですが、経歴上は確かに明後日、長官は誕生日を迎えられます……が、誕生日、それも敢えて休日に出張せねば為らぬ様な緊急事態を私は耳にした覚えは無いですが。」

だから、出張に行くなら月曜日に、と言い掛け息が詰まる。
至近距離で、眉を寄せてルシウスを睨みつけるように、微笑まれたのだ。

「去年は私の直属の部下がお前じゃなかったから知らんだろうが、私は毎年必ず誕生日には出張に行く。」
「……毎年誕生日に一体何処に出張に行かれるのですか?」
「査察と云う名目上で、とある国に、な。……なに、一年に一度だけ巡ってくる、【自由】のプレゼントを如何使おうが、私の勝手だろう?」


あぁ、と合点がいく。最近殊更に、妙なことばかり、聡くなってしまった。
脳裏に刹那に過ぎったのは、先週末にと二人で仕事明けに立ち寄ったBarでの身の上話だ。
自分と彼女は、『生贄』だ。
私たちは純血一族の嫡子のという『生贄』であり『供物』。家の糧で、家という存在に平伏し絶対服従を誓う者。
自分たちで選択する権利も無い。生まれたときから全てが決まっている。
幼いながらに、現実を知らしめられ、必ず伴うであろう望まない自分自身の未来さえ覚悟した上で歩いてきた道だ。
みっともなく足掻いたところで変わりは無い、回り出した歯車のように身を委ねるしかない。

だが、一年に一度くらい、許される日が来るのであれば。
一年に一度だけ、『生贄』ではなく『人』になれるのであれば。自由が貰えるのであれば、叶えたい希望の一つや二つなど、幾らでも湧いて出る。

見え透いた嘘くらい、何に代えても吐き通させてやりたいと、一瞬の逡巡無く思えた。


「家に黙秘で旅行、と云う事ですか。……判りました、出張申請を提出しておきます。序にチケット等の手配も致しますが、場所と人数は――――――」

言い掛け、忘れぬうちにと手帳に書き留めたルシウスが面を上げた瞬間、飛び込んできたのは悪戯な光を宿した獲物を狙うような獣の視線。
気紛れな上官の、気紛れな発言、振り回されない為にもう二度と耳など貸さないと先週決めたばかりだった。

なのに、


「日頃世話になってる上官に、プレゼントの一つもくれてやろうという慈悲の心はあるか、ルシウス?」
「……地位も家柄も経歴も、強いては年収も貴女の足元に及ばない私の贈る質素なプレゼントが、果たして上官のお気に召しますかどうか」
「愚問だな。金で買えるものに価値なんざないんだよ。」
「では、何を?」


止めておけば良かったのだ。
此処で問いへの返答など返すべきではなく、何事も無かったように出張費を後日清算として、出張申請だけを行えば良かった。
だが、遅かった。眼の前の悪魔は菫の双眸を酷く綺麗に和らげ、微笑んでみせる。

呼吸すら抑えてじっと凝視する間、漆黒の艶を持つ絹髪は繊細な光沢を放ち、夜半を迎えるため溟涬な光しか射さない室内に稜を招く。
細められた瞳は端を吊り上げた唇と共に、楽しげに秀麗な微笑を零す。


「お前の休みを一日貰えれば其れで良い。其れともあれか、無償でなど遣れぬ、と?…為らば幾ら払えばお前の休日を私は買えるんだ?」


なぁ?ルシウス、と。豪奢な仕事机に両肘をつき、組んだ掌の上に小さな顔を乗せ。
つまりはあれか、【自由】の名の下の出張旅行に同行しろ、と云う事か。堪ったものではない。この長官のことだ、とんでもないことを仕出かすに決まっている。

…となれば。
如何断るのが得策かと黙り込めば、早急な答えを求めているのか、菫色の瞳がじっと此方を見つめてくる。
早く早くと急かすそれは、よく見ればとても甘えた色に思え。
思えた瞬間、策略に嵌っているとも気まぐれな上司に振り回されないとも誓った筈の自我を呆気無く崩壊させてしまった。
気紛れに描いた想いは、静かに現実味を帯びていって、静かに静かに育ち始め。
全ては甘い毒に犯され、この身体と心は麻痺する。


「私なぞの休日が、上官へのプレゼントに為るのでしたら幾らでもお付き合い致します。」

女を口説きなれているその唇から忠誠を誓うような素振りで言葉を流れ出してみたけれど。
無理難題を押し付ける高貴な姫君は如何やら其れだけでは満足しなかった、と云う事を事後で知る羽目に為る。


「其れは良かった。
実はな、毎年誕生日には母に会いにマグルの世界に行くんだよ。いやぁ、まさかマグル嫌いのマルフォイ家当主が態々マグルの世界にまで共に来てくれるとは、なんとも素晴らしいプレゼントだ」


綺麗な唇から低い音で吐き出された皮肉、満足げに笑んだ瞳はそのまま、こちらとの距離を詰めてきて、気がつけば既にとルシウスの名が記された出張申請書が手渡される。
自分の発言、そして遣ってくる確実な未来に確信を持って覗き込んでくる菫に、最早呆れの溜息も出ない。
この上司は如何してこうも狡猾で作為的なのだろう、ああ確かにそう思うけれど、だけど。

思考を奪われ思案に暮れ、気にかける時間が私の時間を奪い、それが不快ではなく。

溺れるほどの熱を心に与えてくれることだけは違え様の無い事実で、断りきれず『仕事』だと己に言い聞かせる現実に、堕ちて居るのだと思い知る。