優しい言葉など、掛けてくれるなよ。
夜明けが近いのだろうか、幾許か薄らぎ始めた空。
レストルームに行ってくる、と告げてが席を立ってから、既に三十分が経過していた。
勿論その間全てレストルームに居た訳でなく、暫くすると戻ってきたのだが、けたたましく鳴り響いた吼えメールに追い立てられる様にバーの外へと消えていった。
最初のうちこそ、「本当は夜を共に過ごす決まった男が居るのではないか。自分の様に婚約者が家で待っているのではないだろうか」と胸を焦がす、潰すような焦燥感に刈られたりもした。
…が、遠退く吼えメールから漏れ聞こえてきた、
「お嬢様!魔法省の勤務が終わられましたら真っ直ぐお屋敷にお戻り下さいと何度言ったら…」
老人の枯れた涙声に、馬鹿馬鹿しいと溜息を零した。
二人きりで酒を嗜んでいたルシウスの元からが去れば、必然的に静寂が広がる。
明け方近くともあって、辺りはしんと静まり返っていたが冴えてしまった意識には過ぎる程だった。
今日はもう、帰ってしまうのだろうか。未だ日常業務の私語に毛が生えた様な会話しかしていないと云うに。
一口、また一口と酒を運びながら、意図していないはずの方へばかり思考は流れる。
考えるだけ無駄なことだ、と其の侭きつく目蓋を引き絞り、眼前のテラスへ視線を向けた。
もうじき東雲を迎える薄闇の空の下、寂しげな青には小さな光が散らばっている。帰るには丁度良い時分だ、と息を吐いたとき。
「私から誘っておいて、放り出して済まなかったな」
「いえ、私は構いませんが、長官は、」
「気にするな、何時ものことだ。其れより、呑みなおそうか、ルシウス」
入り口の扉に寄りかかるようにしてあった、影が身体を起こすように、ゆっくりと近づいてくるさまがテラスの硝子越しに見えた。月が隠され硝子が薄らいでいたので、の表情までは見えない。
けれど、普段そうするように酷く挑戦的な眼差しで嫣然と笑む様子までが、夜目にもくっきりと見えるような錯覚がある。
「……………帰られなくて、宜しいのですか?」
「偶に仕事が早く終わった時くらい、呑みに行っても罰なんざ当たらないと思わないか?
大体、仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰って来いだなんて、今時小学生でも中々ないぞ。」
「家に帰られてからも、家業か何かが御ありになるのですか?」
振り返らずとも、近づいてくるヒールの音で、ルシウスの直ぐ傍まで来ているだろう事が伺える。
ゆるりと立ち上がって主を失った椅子を引き一礼すれば、触れ合うほどの距離で、合わせた瞳に微笑んで告げられた。
「手の付けられぬ古狸が一匹居るだけだ」
「……古狸、ですか?」
眉根を寄せて返した問いに、何事もないように続けられた言葉は、ある意味想像の範疇内の言葉だった。
”良い歳をして許婚が居ながら、また何処の馬の骨とも判らん男の許で遊んでいるのか、あの放蕩娘は。母親に似て、嘆かわしい。これが家次期跡取りだと思うと悲嘆にくれ、死んでも死に切れんわ。おい、は何処へ行った、誰か今すぐにあの放蕩娘を引きずり出して来い!!”
冷気を含ませ常以上に不遜かつ端的な台詞を言い捨てて、は酒を煽った。
だが、努めて抑制された声の中にも厭でも窺い知れる唖然とせざるを得ない感情は、似たような経験を持つルシウスの心にさながら湧き水のように浸透した。
一言言葉を掛けようと薄い唇を開きかけ、ルシウスは其の侭口を噤んだ。
が過去を偲ぶように、そっと瞳を細めたから。
「父は…、私の存在を母に投影しているのだろうよ。
父と母は政略結婚…基い、家同士が勝手に決めた許婚同士だ。父は仕事命の人間でな、私が小さい頃に家に居たことは殆ど無かったよ。書面上だけの父親と大して変わりないくらいにな。
家は東洋の純血一派の中でも、由緒正しき血を継いできた一族だ。
創設時代から、第一子にのみ正統に血と遺伝子が受け継ぐことを許されて来た一族でもある。
だからの姓を持つものに、兄弟は居ない。産まれて来た子どもが男であろうが女であろうが、双子だろうが三つ子だろうが、一番最初に産まれて来た者だけが必要とされる。
私は幼い頃から、の姓を継ぐ為だけに、次期当主となるべく為に本当に様々な事を覚えさせられた。
ボーバトン魔法アカデミー主席卒業は勿論のこと、魔法省への最年少トップ入省、魔法レベルもトップレベルだ。何においても常に上位に在らなければ為らない。
一番最初に学んだ事は、如何に狡猾に人に付け入るか。…判るだろ、私は常に人を蹴落として生きてきた。
しかし、だ。私にすればそんな事は如何でも良かった。
私が上に在れば在るだけ、母は父から誉められ嬉しそうに笑う。私は、喜ぶ母を見ているだけで充分だった。」
幸せは壊れるために有る様な脆いものでな、とは続けて。真っ直ぐにルシウスを見た。
見返す瞳は揺るがない、変わらない、強いままに。
「私が魔法省に入省して二年ほど経った頃か。丁度長官まで後一歩と云うときに。
母が行方を晦ませた。誰よりも必死になって探したのは、家庭や妻など顧みなかった父だ。
懸命の捜索の末に見付けた母は、純血一族の誇りや魔女であった事を全て棄てて、マグルの世界でマグルの男と家庭を築いていた。生まれたばかりの赤子を抱く母は其れはそれは幸せそうでな。
私が生きてきた生の中で見てきた、どの笑顔よりも幸せそうに微笑っていたんだ。
掛ける言葉が見つからない侭家へ戻れば、父が狂態していたよ。
私の顔を見ては母を思い出すのか、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ、最後には泣訴し、疲弊し眠る。」
そこで、一旦言葉が途切れる。
「――――――10年だ、ルシウス。私はもうこんな生活を10年も続けている。笑えるだろう?」
ルシウスの意識の隅々を駆け巡る、の過去と己の過去の相違点。
床に臥せながら息子である筈の自分を夫・アブラクサスと見紛う母や、生まれてより決まっていたマルフォイ家当主としての宿命、そして決められていたナルシッサ・ブラックとの婚約。
が歩んで来ただろう道程よりも幾分救われている気もしないでもないが、同じような道を歩いている分、同じ痛みを分ち合っている気にさえなる。
少なくとも、自分の婚約者よりも自分の事を理解できる立場に居るのではないだろうか、と。
相変わらず、余計なことを考えている。
の話を聞きながら、改めてルシウスは思った。
「人間、『見るな』と言われれば『見たくなる』生き物だろう?私もそうでな。
ボーバトン魔法アカデミーに通って居ようと、許婚が居ようと、男と遊びにだけは余念が無かったからな。
お陰でストレスの捌け口は幾らでもあるさ。」
ふと。
そこで漸く、ルシウスは真横に視線をやった。余計なことは考えるな、そう精神は頑なに告げる。
他人との距離を保て、常に前だけを見ろ、最低限の規律さえ破らなければ領域を侵すものはない。
そう教えられて来たと云うに、作られた心の暗闇に燈り始めた灯が、如何云う訳か消せない。
唇の形だけで笑ったを見て、胸は声もなく軋んでいる。
見慣れた外套、黒を基調とした、その背にはやはり闇の色をした髪が棚引いている。
酔っても居ないだろう酒の力を借りてでも、そこ等の女に吐くような科白の一つを、気休めにでも吐けたなら。
だが裏腹に、何かを伝えようとした唇からは、やはり掠れた息だけが落ちた。
其れに気付いたか、
「優しい言葉など、掛けてくれるなよ。私は男に頼って生きるような女じゃないんだ」
咎める風な眼差しは不機嫌に険を孕み、薄蒼の双眸を見据える。
返す言葉に詰まり、ルシウスは咄嗟に眉間を顰める。が直ぐに、蒼い眼が秀麗な相貌を振り仰いだ。
次いで、決定打を打とうとが口を開こうとしたその瞬間、被さるように低い声が降った。
「少しくらいは部下に頼って生きてみても良いのではないですか。其れとも、私では頼り無いと?」
駆け引きする様に問えば、大人独特の狡猾さの揺蕩る紫瞳が薄く眇められた。
そうだな…、との頬に流れる黒曜の髪に戯れに指を挿し絡ませながら飄々と言を継ぐ。
「今でもお前が居ないと仕事に支障を来すほどだぞ?これ以上お前に頼ろうものなら、逃げられるだろ」
言葉の表現は辛辣だが、紡ぐ声音に嘲りや皮肉めいた感情は無かった。
麗容で端正な相貌は、ふ、と優しげな微笑を型取り、恋人同士の交わす睦言かと錯覚させるような甘露を浸した艶めいた声では囁く。
「お前に愛される女は幸せだな、ルシウス」
「――――……っ、」
気付いた時には、の科白の意図に不意を突かれて、ルシウスは不覚にも吐息を噛み殺し損ねる。
何事もないように続けられた言葉。きっと彼女にとって多くの意味は持たないのだろう。
だのに、ルシウスの心を刺す感情が、俄かに質を変え、刺し抜くような鮮痛になった。
いつか、いや、いずれそう遠からぬうちに。
気付かない振りしている感情は、何処か曖昧にぼやけてうまく形を結ばない侭、愛へと変わるだろう。妙な確信ばかりがあった。
初めてと出逢った時から2年を数える頃合の、ある春の日の話だった。