いっそ、同属嫌悪ならば良かったのに。




午前零時。
時を刻む時計の音と書類を捲る紙擦れの音、羽ペンの刃先が瘡付いた羊皮紙を撫ぜる音ばかりが響く、魔法省のとある一室。
遅めの昼食を終えて数時間、座りっぱなしと過度の超過勤務続きで意識が朦朧と仕掛ける頭を軽く振り払い、前を見ぬままは馴染んだ所作で隣に置いた書類へと手を伸ばす。
一枚一枚と確実に減って行く筈の書類は、が片付けた横から彼女の優秀な部下によって一枚ずつ積み上げられていくものだから、減るどころか気を抜けば増える一方だ。

先程から時の経過と共に比例し始めた書類塔に埋もれながら、ふと何かを思いついたように、上げた視線の先では微笑みさえもする。
其の紫の視線上に在るルシウスは、唐突に厭な予感に苛まれ、険しくした眼差しにただ力ばかりをこめた。


「なぁ、ルシウス。目の前のうざったい書類が今日中に片付かなかったら、お前は如何する?」

乱暴に手を伸ばし、未処理の重要書類を捉え、紙の瓦礫の山から引き上げた。
掴んだ書類を小さな相貌の正面で翻し、氷のように冷えた微笑で問うてくる。如何やらもう今日は仕事をする気力が残っていないらしい。

「明日また始業時刻に此方へ参ります。」
「明日は土曜日だが其れでもお前は来るのか?」
「この書類が片付かず、長官がお休みに為れぬのに私ばかりが休日を取る訳にはいきません」

だから能書き垂れずに仕事をして下さい、と意味を籠めて散らばる書類を束ねていれば。
そうか其れならば良かった、と菫の双眸は、それはそれは柔らかい曲線を描いては蕩揺るように浮かぶ。

「よし、ルシウス、呑みに行こうか。時間も未処理の書類数もキリが良い。何せ見事な満月だ」

サッと音を立てて開かれたカーテンから落ちる月光に細く眇められた瞳は、それから微かに色を和らげた。
直ぐにでも吐きたい溜息を堪え、ルシウスは書類を束ねる仕事の手を休めぬままで、独り言の口調で、淡々と。

「冗談も休み休み仰って下さい。この書類の山を放って呑みになど行けるとお思いですか。」

なんの感情も含まず、仄暗い底の見えないほどに、静かな声だった。
ルシウスがそんな声色を出す時は決まって不機嫌を露にしている時なのだが、生憎とはルシウスの機嫌などお構い無しに等しい。


「呑みに行かずに朝まで仕事を仕事をしたところで、終わる見込みなど無い。其れに、今夜はもとより、明日も私の仕事に付き合ってくれるというのなら、別段、今夜明日共に用事がある訳でも無いのだろう?為らば問題無いだろうが。」
「問題があるとか無いとか、そう云う次元の話では…」

「このまま怠惰に仕事をしていては、非効率も良いところだ。美味い酒を味わい、疲れた身体と喉を癒して心機一転明日に備える。――――――如何だ、名案だろう?」


言いながら、羽ペンをインク壷へ付き返し、背に掛けた外套を掴んで立ち上がる。
杖を一振り、机の上の書類一帯に保護魔法を施す様を見れば、先程言った言葉が真摯だということを暗黙に告げる。
ルシウスの返答を待たず、はひらりと身を交す様にルシウスの隣を通り過ぎる。
幾らか離れた後ろを続いても、続かなくても、の所作は変わらない。隣を過ぎる際に、あからさまに不機嫌に瞳を細めるてみても、何も言わない。
ほら行くぞ、と少しだけ笑みを零す上官に、ルシウスの表情はますます険しくなる。


長官。」
「安心しろ、ルシウス。私はどれだけ浴びる程酒を呑んでも、絶対に二日酔いに為らないのが自慢なんだ。其れともあれか、私と一緒だと美味い……………………………」

言い掛け、僅かに眉根を寄せては如何やら何かを考え込んでいるようだった。
重要書類を片付け忘れたのだろうか、其れとも真面目に徹夜をしてくれる気にでも為ったか。
数瞬ののち、後者ならば有り難いな、と胸中で零したルシウスの鼓膜を掠めたのは、残念なことにそのどちらでも無かった。


「配慮が足りなくて申し訳なかったな、ルシウス。
偶に早く家に帰れる日くらい、連絡無しで家に帰って臥し待ち人を驚かせて遣りたくもなるな。如何も最近、自分本位で困る」

ドアノブに手を掛け振り返り、は切なそうに眉根を下げてみせる。
はぁ、と我が儘で狡猾な上司にルシウスは胸中で溜息を吐くと、少し思案してから言葉を投げ掛けた。

「臥し待ち人など居りません。私はこの書類を庶務へ回して来なければ為りませんので少しお待たせしてしまいますが其れでも宜しいですか」
「勿論、問題ない」

と、歌声の様な甘やかな響きの言葉と共に、は嫣然と微笑んだ。




見上げれば星の輝きが残るような静謐な空の下を、ルシウスとは歩き、魔法省から程遠くない場所にある歓楽街へと身を滑り込ませた。
時間も時間だからだろうか、ただ遠く、ぽつぽつとある地上の光だけが酷く温かく見える。
向かう場所は最初から決まっていたのだろう。10分ほど歩き、一軒の古めかしいバロック様式の館染みたBARの扉を押し開き、カウンターへと腰を落とした。

店内は閉店間際か売れぬ店か隠れ家か、閑散としており、ルシウス達を含めた客人の数は10にも満たない。
けれど気にする様子も無く、はマスターらしき人からメニューを受け取ると中も見ずにルシウスへと差し出した。


「殿方と連れ立ってご来店下さるとは、珍しいですね、嬢。嬢の心を射止められた方がついに?」

店主の流暢な文句に、ふ、との両眼が眇まる。

「いや、この男は私の部下で、ルシウス・マルフォイと云う。
家柄も云う事無い上に若くして魔法省高官、見ての通りの良い男なのだが、なかなか如何して生真面目でな。
10分だけ寝ようと部屋を抜け出せば修羅の形相で負い掛けて来るわ、髪を結い上げるのが面倒だから式典にローブで出ると云えば態々庶務課の女子を引っ張ってくるわ、重要書類を失くしたと騒げば10秒後にはゴミ箱から見つけ出してくるわ。挙句、醜聞なんて放っておけば良いものを、屋敷僕に速記ペンとカメラ持たせて現場を押さえた上にコーネリウスに匿名で送りつけるんだぞ?――――本当、優秀な部下を持って私は幸せだよ」

暗鬱とした照明の下に揺らぐ昏い菫両眼、皮肉気な笑み。
普段は、整いすぎた清冽な顔や本当はきつい両眼を、笑みで隠している。こうして自分に別の意味で素顔を見せてくれるようになったのは、何時からだっただろう。

「…………大半厭味にしか聞こえないのは、私の気の所為でしょうか」
「気に入られているのですよ、マルフォイ様。嬢が『ひと』の話をするのは珍しいことですし」

オールドグラスを二つ静かに彼らの前に置き、寸間の後ゆっくりと返答した店主は、優雅に部屋の隅へと身を翻した。
ご用事があれば何時でも、と掌サイズの小さなガラスの鈴をひとつ、彼らの間に置いて。
カウンター席の真正面は、壁を切り取って硝子を嵌め込んだ様な広大なテラスが在る。窓の外には唯静かに夜が広がっていた。
暗闇と、点々と燈された灯りと。何処に居ても、何処から見てもきっと普遍の光景。まさか其れをと共に見ることに為ろうとは。


「判っているとは思うがな、ルシウス。酒の席では無礼講だ。」
「ですが、私は―――――」
「気を遣って呑む酒ほど不味いものは無いぞ。何、早々に酒に呑まれてしまえば良いだけの話だ」

冷えたオールドグラスに映り込む前方の景色―――魔法省の影に静かに眼差しを向けたままに、とルシウスはグラスを鳴らせた。

「無礼講、と云うことで、幾つか質問しても宜しいですか。」
「生年月日とスリーサイズ、ついでに知能指数は非公開だ。」
「いえ……、長官こそ、偶に早く上がれた日くらいは臥し待ち人の許へ帰られた方が良かったのでは、と」

春に咲く小さな菫の花の色と同じ色彩の瞳の奥が刹那揺れる。
だが、すぐさま凛とした響きの応えがルシウスの耳に伝わった。


「私は昔から、煩わしいものが嫌いなんだ。
その場限りの男なら幾ら居ても構わないが、本気になってもらうと此方が困る。
私の家名を知っているか?ルシウス。厄介なことに、魔法界の純血一派の中で頂点を極める一族の末裔。
更に最悪なことに、私は家嫡子、其れも一人娘と来たものだ。
私は生まれてから死ぬまで、純血一派の末裔として、敷かれた道の上を歩き続けなければ為らない。
魔法省長官を遣っているのも遣っていられるのも、所詮は、敷かれた道の上の通過点に過ぎない。
継ぐべく家も添い遂げる相手も、人生どころか運命まで全て決まっている身の上で、寄ってくる男の相手など面倒極まりないだろう?
本気で心奪われでもしたら、其れこそ仕舞い。為らば実力で逃げ切れとでも言うか?
最初に言っただろう?私は煩わしいものが嫌いなんだ。私は『家嫡子』としての名に恥じぬ存在で無ければ為らない―――――そう、お前のように」

ルシウスに同意を求めるかのような、静謐な熱情が薄紫眸の中には揺蕩っていた。
カランと鳴った氷の音だけが木霊し、の言葉に応えは無かった。
勿論もルシウスからの返答を期待していた訳ではないのだが、やや間を置いて、密やかな溜息が室内に融ける。


「私を傍に置いたのは、私が貴女に似ているからですか?」
「いや?――――ルシウス・マルフォイと云う其れは其れは目見の良い男が入省してきた、と噂を聞いてな。出逢ったあの瞬間をまさか忘れたとでも?
なんだ?私と境遇が似ているから私のスケープゴートにでもされたと思っていたのか?
残念ながら、理由はもっと単純且つ明快だ」


くつくつと笑むを見据えるルシウスは、静かにハーパーを口に含む。
其処に苛立ちは無かった。また、呆れていた訳でも不愉快だった訳でも無かった。
ただ、莫迦げたことに――そう、全くもってばかげたことに。

その低くあまやかな吐息が孕んでいたのは、一種の諦念と、確固たる思慕。
齢を重ねた大人らしくも無い、隠匿しきれなかった微細な胸臆の揺らぎだけだった。

「如何したルシウス、酒が進んで無いぞ。もう帰りたくなったか?」

は静かにグラスを降ろすと、頬杖付いた掌の上に小さな相貌を乗せて、ルシウスを覗き込む。
反射的に目を反らそうとしたルシウスから全てを奪い去るように、逃れることを許さずにしかと己の紫瞳を合わせた。
そうして酷く美しい様で嬌笑されれば、最早決定打となる。


ルシウスの口唇が、明けの明星の気配を濃密に纏う室内で、囁くような応えを綴った。

「貴女が望む限り、私は貴女のスケープゴートに」

紫眸がルシウスの言葉の意を咀嚼するまでに、ほとんど刻は要しなかった。
幾らか瞬きを落とし、グラスの底に残るウィスキーを嚥下した後、紫色は薄く眇まり玲瓏な台詞がルシウスの鼓膜に忍ぶ。


「後から後悔しても、離してやらんぞ。私は未だ、お前を手放す気は無いからな」

くつりと笑んで、台詞を吐き出したその口唇を慰撫するかの如く、ウィスキーを煽った。
レストルームに立ったを見送り、ウィスキーのお変わりを所望する序にルシウスは、先程からけたたましく振動する携帯電話に似た機械を外套から取り出した。
ディスプレイに光る「Narcissa.Black」の文字に一つ息を吐き、機械の電源をオフにする。


未だ、この想いに名は付けられない。
だが、この静穏にも激情にも思える要素窺わせる時間を、婚約者と云う肩書きの存在に潰されたくは無かったのは確かだ。

「同属嫌悪ならば、未だ、良かったか。今更知ったところで、嫌いになど――――」

困惑したような微苦笑がルシウスの口許に浮かび、音質の僅か低めのテノールが、誰に告げる訳でもなく静かに紡がれて。
二人きりの、夜は更けて行く。