『男は、女に屈する獣だろ』
先程まで米神に数個浮んでいた青筋が、5分後には全く別の意味を持ち、更に二個増えた。
人探しをしていた…筈だった。
無駄に広い魔法省の廊下を足音も立てずに歩いていたのは別に、彼らの話を立ち聞きすると云う不埒な真似をする為ではない。
予てより放浪癖が直らぬ上官…足音一つで其れが誰の立てた音なのかを判別出来る程研ぎ澄まされたスピリッツを持つに、自分の存在が気付かれない様にするための防衛策だった筈。
なのに何故こうなったのだ、不機嫌を最大アピールしてその綺麗な顔を歪ませ、ルシウスは心底そう思う。
さらり、と頬にかかる白金色の髪を耳に掛けながら溜息を吐き、ゆっくりと壁に背を付け耳を凝らす。
勤務時間中且つ魔法省高官のみが軒を連ねる上層部とあって、ひとけが殆ど無いと明言出来る程皆無。
だが今は違っていた。
数歩手前から人声が耳に届き、ルシウスは踵を返そうと歩を止める。
仮にも、此処は魔法省上層部。あらゆる欺瞞や醜聞が渦を巻いて放置されていると云って良い。
人の醜聞を盗み聞きする趣味も無ければ、告げ口するような趣味も無い。今この状況で、厄介事に巻き込まれるのは御免だ。後からもう一度、此処へ来れば済むだけの話だ。
普段は聞きなれた声に聞きなれた皮肉が届いても、ルシウスはやれやれ、と肩を竦めるに留まった。
しかし、
「ご存知ですか?地位を手に入れるためなら誰とでも寝るって噂ですよ」
「あの美貌にあの体躯、成る程、だから今の地位が手に入ったと云う訳だな」
「・が長官職に在れるのも所詮は……一時の夢物語に過ぎないかと。」
人目憚る様に叩かれた陰口が、自分の上官に対するものであったと認めた瞬間に、ルシウスの中に言いようの無い憤怒が芽を出した。
感情を抑えた様に低く色の無い声で、数メートル先で陰口に勤しんでいる者達の名を紡ごうかと思いもしたが、もう暫く様子を見ることにする。
勿論、彼らが叩く醜聞を長く聞いていたいから、という滑稽な理由などではない。鼓膜を掠める程度にしか届かなかった声と足音が、時の経過に比例して大きくなって来ているからだ。
態々此方から出向く必要もあるまい。自ずと彼らは遣ってくる。
案の定、仕方なくぼんやりと聞き耳を立てて居れば、曲がり角から皮肉を垂れ流す人物達が雁首揃えて現れた。
「マ、マルフォイ…!こんな場所で何をしている、大体今は勤務時間中だぞ!!君がそのような態度では、君の上官に迷惑を掛けることになるのが判らないのか!!?それに…っ」
一瞬で狼狽し、乾ききった咽喉に無理やり声を滲ませたように喋る男の貌を見遣れば、意味もなく苛立つ。
女でも落とし込むような秀麗な相貌に明らかな不快の色を滲ませれば、相手の語尾は掠れて、まるで意味を為さない。
「勤務時間中なのはお互い同じだと思いますが?其れに…一つ伺いたいことがありまして、お話が終わるのを待たせて頂いていたのですよ」
「なんだ、私は忙しい、話なら手短に願おう。」
鬱屈とした感情が耐え難く軋むように、不機嫌吐き棄てた男は、一秒でも早くこの場を去りたいのだろう。
無理も無い、ルシウスは彼らが今話していたに仕える者、彼らは其のに蹴落とされてきた人物達だ。
だが何時如何転機が舞い込み、展開が変わるかは判らない。
故、表面上は非常に友好的に、けれど虫の好かない奴だ、という思いは双方共に抱いているだろう。
「長官を―――――見掛けませんでしたか?午前中に貴方とお逢いする約束があると伺ったのですが」
不機嫌そうに眇められた瞳は、何時もの事であるが、今回は其処に憤怒の色が混じっているのを彼らは見逃しては居なかった。
おそらく、会話の始終を聞かれていたのだ、と漸く気付いた彼らは更に視線を泳がせた。
「い、いや見掛けてないが。其れに約束は今日ではなく明日だ、其れよりマルフォイ、お前何時から――」
「其れは失礼致しました。為らば他を当たることにします」
其れはそうだろう。
彼とが約束しているという話自体が咄嗟の捏造話であり、明日の午前に逢うという話に至っては初耳だ。
意識せずとも、言葉が硬くなった彼らに弁解の余地すら与えさせず、況して此れ以上此処に長居する気はないと踵を返せば、
かちゃり、と微かな音を立て、彼らの真後ろに位置する部屋の扉がゆっくりと開いた。
「あぁ悪いな、マルフォイ。私は此処だ」
振り払うように見やった先には、瞬きをひとつし、挑戦的な菫色の瞳を携えたが扉の縁に寄掛るようにして立っている。
口唇から低い笑い声が漏れているのは差し詰め、ルシウスの気の所為ばかりではない。
余りのタイミングの良さと神出鬼没さに、想像以上に間違いが無さそうな策略に気が付いて、引き笑いを起しそうになる。
若しかしたら自分よりも先に彼らが放つ醜聞に聞き耳を立てていて、其処に偶々自分が居合わせてしまったのではないか。だとすれば、相当性質が悪い。
「これはこれは長官、随分とお暇なようですな」
流石に全ての会話を聞かれていたとなると罰が悪いのか、卒倒せんばかりの顔色で引き攣る二人の従者を差し置いて彼は開き直ったかのように早々に皮肉を零した。
だが、はさも当たり前のようなにこやかな上辺だけの表情を作り上げ、
「明日の会議に使う資料を探して居たんだよ。一人で来たのは流石にまずかったかな、探すのに手間取った」
確かにが出てきた部屋は、機密文書を扱いになるような重要資料ばかりが保管された資料室。
仮に、醜聞を盗み聞きしていようが本気でサボタージュしていようが、出て来た場所が資料室ならば、真相など闇の中。
更に加えてちらり、と面白がるような視線を投げてくるからルシウスは眉間に指を当てたくなった。
これは確実に、【意図ある盗み聞きを資料室でしていた】と物語っている。
色々な意味で抱えたくなる頭を忘れる様に力籠めれば、眉間に皺が寄ってそれが更なる頭痛を呼んだ。
「初めから私を呼んで下さい。それと、コーネリウス・ファッジがお呼びです。」
「なんだ?私は別に叱責を食らうような真似は最近した覚えが無いんだが…。あぁ、…其れから。私は誰とでも寝るわけじゃない、忘れたか?現に君には丁重にお断りをした筈だ。では、また明日…があるかは判らないがな。」
秀麗な相貌に恐ろしい程に映える美麗な微笑みを引き下げて、は踵を返すと、たった今言ったことも忘れたような顔で悠々と廊下を歩き始めた。
続くようにルシウスも彼らに一礼し、踵を返し翻る外套の背に倣って歩き出す。
バサリ、と書類が地面に落ちたような音がしたのは大方、彼の側近が抱えていたものが落下した為だろう。
此れで彼の今の地位失脚、更に下層部への左遷は決定的に為ったと云える。
暗澹たる思いを隠し切れないまま暫し無言で廊下を歩き、と共にの自室に入って後ろ手に扉を閉めた瞬間が、糸の切れた瞬間でもあった。
意識せず漏れたため息は、存外に重い。
「言いたいことも聞きたいことも無数に有りますが、」
「一つだけにしてくれ、明日の会議に使う資料を何一つとして書いてないんだ」
明日行われる会議は、名目建前上だけの会議であり、本質は現在の人員再編成だ。
参加を余儀なくされる魔法省高官誰しもが、昇官されるように降格されることの無いように、と通達を受けた一週間前から死に物狂いで資料を作成している。
会議まで残り、1日を切っていると云うに、なのに、なんだこの楽観振りは。
あっけらかんと言い放つ上司に、ルシウスは瞳を歪める。
だがしかし、遣っ付け仕事で書き上げた資料一つで、が今までの地位を維持していることは事実だ。
去年の今頃も確か、半日程度で書き上げていたな、と思い出しては、他の高官達への同情を禁じえなくなる。
「大体、資料を取りに行っていたのは事実だし、あの場で彼らが私の陰口を言ったのも其れが私の耳に入ったのも、ルシウスが盗み聞きしたのも単なる偶然だ。それ以外に何かあるのか?」
「――――――明日、彼とお逢いするなど私は一度も聞いておりませんが。」
そして彼に言い寄られていたことも初めて聞きましたが、と次いで述べる。
普段からよりも目線の高いその蒼の瞳には、けれど見覚えのない色があるようにも思われた。
ほんの一瞬のことで、すぐにいつもの、冷たい視線に戻ってはいたが。
「元々行く気など更々無かったからな、記憶の彼方に忘却されていたんだろう。」
「次からは私の耳にも入るよう、善処して下さい。御身に何かあれば……」
「あぁ、其れなら問題は無い。」
他意なく言ったであろう言葉が、ルシウスの琴線に触れた。
「何故そう言い切れるのですか?」
現に言い寄られていたのは事実、仮にも男の力で捻じ伏せられでもしたら、彼女など一溜りも無いだろう。
いや別に、彼女が如何こうなろうと自分の立場が如何為る訳でもない。思えど、心から、そう割り切れないのはなぜだろう。
かすかに漏れた溜息と迷う眼差しは、意識して払拭をする。
「男を落とすことは何の術も必要ない。況して其れが自分に惚れている男なら尚のこと…子どもを手懐けるよりも勝算は高い。…所詮は、男は、女に屈する獣だろ?私は此れでも獣の躾は得意なんだ」
なんの感情も含まない、けれど底の見えないほどに静かな声だった。
そう云えば、彼女が飼っている猫は最近、『お手』と『お代わり』を覚えたと言っていたか。
未だ不機嫌にへ目を向けていると、彼女の瞳は一心に、物色してきた資料へと注がれている。
「私も躾けられている、という事でしょうか」
問えば。窓辺から落ちる光に細く眇められた菫の瞳は、それからかすかに色を和らげ、唇の形だけで笑った。
「安心しろ、お前を他の誰にも渡す気は無い。例えコーネリウスだろうとな」
…ああ。
確かに男は女に屈する獣かもしれない、と。
浅い呼吸ばかりを繰り返す肺と、色濃く立ち込める想いに心は、声もなく軋んでいる。