最後の最後、物語の結末で嘘をついた




普段ならば、軍隊か何かと間違ったような規則正しい足音がピタリと扉の前で静止し、待つこと実に二秒。
控えめなノック音が二回鳴り、入室許可を伺う硬質な声が廊下に響く。
だが今日は違っていた。
魔法省高官が犇き合うこの地下125階にある廊下を、運動会の徒競走レーンか何かと勘違いしたように、脱兎の如く駆け抜ける様な忙しない足音が聞こえ、自室の前でピタリと静止した。

「…また、か。」

朝から厭な予感はしていた。
触る前からリビングの花瓶が倒れ、魔法省へ行こうとすれば革靴の靴紐が一本残らずブチ切れ、玄関の扉を開けば滝壺にでも居るかのような豪雨。
一瞬出勤を辞退し様とした位だ。重役会議など入ってなければ、先ず名目的体調不良だろう。


「マルフォイ様、長官のお姿がお見えに為られないのです。」


返事を聞く時間も惜しいとばかり、扉を蹴破るように駆け込んできた部下の顔色は至極悪い。
暗鬱な魔法省の光彩の所為ばかりではないだろう。
況して、急激に顔色が青く変色する薬草でも食べたか、と暢気に聞いている場合でもないと見える。
何せ、今日の重役会議の主役はルシウスの直属の上司でもある、長官。
其れも、間の悪いことに任命式と来たものだ。
会議や任命式、付け加えては社交的な場を一切嫌う…基い、が魔法省を抜け出すことは日常茶飯事の出来事だ。
いつもならば二・三時間放って置けばストレスを存分に解消してスッキリ笑顔で帰ってくるのだが、今日ばかりは分が悪い。チラリと時計に蒼眸を落とせば、間も無く11時を回ろうとしている。

会議まであと、一時間といったところだ。

「魔法省中を探したのか」
「はっ、偵察梟200羽、監視用モニタ1500台、警備兵200名、屋敷僕500匹にて捜索及び検証致しましたが、長官らしき人物は未だ確認出来ておりません。
また、長官のセキュリティチップの反応が魔法省内に存在しておりますので、魔法省内にいらっしゃるとは思われますが、高等魔法か我々が立ち入れない区域にいらっしゃるのか、居場所の特定が困難な状況でして…」


眼を離した隙に逃げられ、叱責を喰らうと思っているのだろう。部下の足が僅かに震えているのが見える。
大方、長官のお目付け役にでもされたのか、可哀相に。
魔法省を抜け出す事と仕事をサボる事に関してはずば抜けて知恵の働く上司を見張る役目は意外に重労働だ。
体力を極限まで消耗して見つかるならば其れで良い。
咎めは全てが受けるのだから。だが、体力精神力共に擦り減らして尚見付からない場合、待っているのは、残念な事に懲罰か左遷だ。

―――――まこと、戯れが好きな長官だ。

ルシウスは垂れていた頭を書面から上げ、そして暫しあってから――緩やかに唇を操る。

「最後に長官を見た時刻は?」
「はっ、15分ほど前に珈琲をお持ちした際には、書類の山と格闘されておりまし た!!」
「(…為らばあそこしかあるまいか…)判った、私が行こう。式典には私がお連れする、お前は仕事へ戻れ」
「はっ、宜しくお願い致します!!」

こ気味良い敬礼と声を残し、顔面蒼白気味だった部下は意気揚々と踵を返し、来た時とは別の足音を響かせて帰って行った。
息の仕方を忘れた魚の様に喘いで居た姿は何処へやら、水を得た魚のようだとルシウスは咽喉奥で哄笑する。

「さて、我等が女王様を探しに行きますかな」

ルシウスは独りごちる様に呟いて、僅かに双眸を伏せる。
の行き場所など、 検討が付いている以前に、思い当たる場所は一つしかない。
やれやれ、先程の男は何処まで脳の螺子が外れているのだろう。あんな無能が部下だなどと嘆かわしい。
歎息しながら、背に掛けたローブを引き摺り下ろし、杖を携え自室を出た。



ルシウスの部屋からの部屋へは割りと近い。
広大な魔法省の中、2分も経たずに重厚な革張りの扉の前に来たルシウスが、音を立てぬようにゆっくりと扉を開く。
案の定、静謐な空気に包まれたの部屋は蛻の殻。机の上には未だ仄かに温かいだろう珈琲の入ったカップと、無駄に座り心地の良い椅子の背にの外套が掛けられている。

「(やはり、な…)」

それを見遣り、思わずといった風情で笑み声を口唇から零して、ルシウスは双眸を細くする。
極力音を立てぬよう、ゆっくりとした足取りでソファーを通り過ぎ机の脇へ身体を滑り込ませ、主を失った椅子の下。丁度椅子が格納されるだろう場所を除けば、胎児の様に小さな身体を更に小さく曲げて眠る上官の姿に、ルシウスに微かな笑みが混じる。

は良く部下の眼を盗んでは、こうして自室の机の下で仮眠を取っていた。ルシウスが最初に其れを見付けたのは、もう何年も前の話だ。
机の上にばら撒かれた決済済みの書類を束ね終え、時計を見れば式典まではあと40分。
昨日も徹夜だったのだろう、30分位は寝かせて遣ろうか。だが、風邪を引かれては困る、と椅子の背に掛けられたの外套に手を伸ばし掛け。
ん、と一瞬考え込んで手を留めた。黒衣の裾がふわりと揺れ、静かな物腰で膝を折ったルシウスは自身のローブを毛布代わりに、との身体へ掛けてやる。

さて、自分はあと30分如何しようか。
此れならばに決済を貰わなくては為らない書類の一枚や二枚持って来るべきだった、と後悔する。
だが直ぐに思い出したように、物音を立てないように気をつけて、静かに歩み寄っていく。
自分のローブを抱きしめるようにして眠る、自分の上司であり、決して吐瀉出来ぬ想いを抱く彼女の元へ。
こんな風に寝顔を見たのは、いつ以来だろうか。
閉じた瞼の下、隠されたアメジストのような菫色の双眸。睫の影が頬に落ちて、こうやって大人しく眠っていれば、普段の厳しさからは想像出来ぬ小さな一人の女の顔をしていると思った。


「(……私が、貴女の上司であれば…)」


しばらくの間傍に立って、を見詰めても浅い吐息が漏れるだけで、起きる気配はなかった。
昨夜の徹夜の所為か日頃の睡眠不足が手伝ったか、深く眠りについている。目覚めるのは先の事だろうな、と勝手にルシウスは推測した。

「(貴女は私を―――――)」

冷えた室内で眠っていた所為か、色味を失ったような口唇が痛ましい。
静かに腕を伸ばし肘を床に付いて、――――それからはもう、衝動的としか理由付けが出来なかった。
吐息を奪わないよう、静かにゆっくりと口唇が触れた。
触れれば今度は冷えたそれを暖めてやりたくて、浅い口吻けを幾度か繰り返し。

(私は―――、何を。)

形名ばかりとはいえ、婚約者である身の上で、上官である人間に対し。不敬以外の何ものでもない。
為らば今直ぐこうべを地に付け無かったことにして欲しい、と平伏すのか。出来る訳が無い、不敬罪に問われようと、無かった事になど出来る筈は無い。心中に響くのは、否定する声ばかりが。

これ以上此処に居てはいけない。何より自我がそう伝える。
そしてなるべく音を立てない様に気を巡らせて、机に向かって歩を踏み出した時だ。ゆっくりと背後で、布ずれの音が聞こえた。


「――――ローブ…?」

未だ半分夢見心地のような声色に、ルシウスはす、と胸の痞えが下りたような気がした。
如何やら気付かれては居ないようだ、と一瞬の後それは実直な部下然とした顔つきに変貌する。

「お目覚めですか、長官。そのような場所で寝られては風邪を召されます」
「―――ん、あ…、お前のか、ルシウス。有難う。ところで何時から居た?」
「今しがた、長官が消えた、と部下が蒼い顔して飛び込んできまして。」
「そうか、済まなかったな…」

小さな躯を机の下から這い出し、椅子の上に自堕落に座り机の上に腕で枕を作り上げ小さな頭を乗せながらそこまで続けて、は漸く己を凝視するルシウスの表情に気付き、訝しげに双眸を眇めた。

「……、なんだ、私は変な寝言でも言ったか?」

心底、不思議そうに瞬く、その菫の瞳。
そんな上司を一瞬黙視しやがて、いいえ、とルシウスは苦笑の色濃く否定を吐き出す。
腕に置いた時計を見遣り、「あと20分お休み下さい。20分後に迎えに参ります」と告げ、慇懃に一礼しての部屋を去った。


「………ありゃ、夢だ」


自分自身に言い聞かせるように、半ば眠りにとろけた風情では呟いて、睡魔に抗うこと無く眼瞼を閉ざした。
空気の動く気配がして、意識を闇の淵から掬われた際に感じた仄かな温もりの感触は、如何か夢であれ、と願いながら。