一分間の蜜月




至急、と書かれた一枚紙の書類と分厚い羊皮紙二巻きを携え、上官であるの部屋を訪れた際。
不機嫌極まりない表情で魔法で扉を開いた上官は、紅く【至急】と印の押された紙だけを引っ手繰る様に奪い去って視線を一走らせする。
さらさらと、流麗な文字で署名を書き記して捺印した後、書類を持ち上げた侭に彼女は麗容な微笑を浮かべ、

「なぁ、ルシウス。こ一時間ほど私と、愛の逃避行しないか?」
「………は、?」

思わず吐いて出た言葉を訂正するような思考回路も働かない侭、ルシウスは取り敢えず、と手を伸ばして書類を受け取ろうとすれど、指先は空を掻いただけに終わる。
ひらりと身を交わす様に差し出した書類を上へ持ち上げ、邪気を湛えた薄紫の瞳がゆっくりと微笑み、

「Yesと言えば渡してやる。Noと言えば燃やすがな。」
「………職権乱用の強制、ですか」
「いや、唯のパワハラだ。」

艶やかに微笑むに、ルシウスは心の中で歎息した。
如何だ、断りきれないだろう、とほんの僅か、薄紫の瞳奥に期待が滲んでいるのが判った。
有言実行、そんな言葉は彼女のためにあるような言葉だ。此処でルシウスが「No」と言えば、微笑んだまま手にした書類の重要度などお構いなしに戸惑いなど微塵も無く、一瞬で書類を炭へと変えるだろう。

遠くない未来を思い、ルシウスは短く、「Yes」と答えた。
ゆっくりと口角を歪めたは、ルシウスの腕から二巻きの羊皮紙を受け取ると執事へ「行ってくる」とだけ告げ漆黒の外套を翻し、行き先も告げぬままルシウスを強制的に拉致した。




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天と地が其の侭融合したかのよう、天空も地上も文字通り蒼に染まった景色に、ルシウスは視界を剥ぎ取られた侭息を呑んだ。
眼下に揺らぐは、コバルトブルーに染め上げられた湖。
頭上に広がるは、蒼穹に染め上げられた一点の曇り無い空。
地平線と水平線が交わる境界の地は、色味が朧ろな藍が揺らいでいるだけで、天と地が本当に融合している様な錯覚を帯びた。
だが、急激に現実世界へ舞い戻されるよう、聞き馴染んだ、通りの良い低い声が鼓膜を打った。

「如何だ、息抜きには最適だろう?」

漆黒の外套と解き放った侭の見事な漆黒の髪をささめきたつ秋風に晒しながら、彼女はポケットからシガレットケースを取り出した。
其の所作に、同じく漆黒の外套を風に嬲らせたルシウスが、訝しげに眼を眇める。

「…長官が煙草を召されるとは初耳ですが。」
「人前では吸わないからな、何も見なかった事にしておけ」

そう告げて。
シガレットケースから、日頃羽ペンを駆使していると言うに胼胝一つ出来ていない、華奢な指先が掴みあげた煙草の銘柄はルシウスの既知していない種類だった。
既に封の解かれていた深紅の箱の中身は残り少なく、見た事の無い種類の煙草に聊か興味を惹かれたルシウスがの手許のケースを暫し眺め遣れば、

「お前の口には合わないかもしれないな、此れはマグル製の煙草だ」

言いながら、親指一つで蓋を倒して、少しばかり傾げて細い円筒を流すとその先端を口先で銜える。
女性が煙草を吸う姿は余り好まなかったが、このと云う人物が織り成す所作は、酷く絵に為る、とルシウスは思う。
だから…か、感化される様に、「一本頂けますか」と柄にも無く口にしていた。
驚いた様に薄紫の瞳を見開いた後、「あぁ」と密やかに、低く平坦な返答を零す。

一本筒を抜き取り、ルシウスに差し出して、箱は外套の内ポケットに滑らせた。
掌の奥に残した長方形から燐寸を取り出し、ゆっくりと火を点す。
微弱に揺らめく橙に吸い付けば、細かな葉屑と巻紙が緋色にとろけ始めた。


「此処は、長官の気に入りの場所で?」
「あぁ、時折息苦しくなると此処へ逃げてくる。なに、遅めの昼食を取るついでだ、誰も文句は言わないさ」

息をして、紫煙を肺に沈めながら、が返す。
口唇に掌を近づけ、一呼吸おき、また離して。

「本日の昼食は召し上がりましたか?」
「いや未だだ、もうじき戻る。その時にでも食べるさ」

言葉と共に、緋が先端に点り、やや間を置いて仄かに色づいた呼気が緩やかに拡散される。
紺碧と蒼穹に抱かれるようにして丘の上に立つの姿を、ルシウスは目線で辿った。
さらりと着こなした上質の外套の下には、職位を示すピンが留められ、隙無く着こなされた魔法省のローブが見える。
中指と薬指の間深くに煙草を挟んだ薄く華奢な掌は、激務をこなす人間のものとは到底思えない。

そして静かに、静かに、掌で口許を覆うような仕草で、彼女は煙草を吸う。
吸い込む時に少し伏し目がちになるのはの癖なのだなと、眺めながら頭の片隅で思った。


「そろそろ戻るか、ルシウス。」

微かに睫毛を震わせて、揶揄を滲ませた薄い笑みを揺蕩らせる。
それは僅か煙草一本分の短い休息時間。此れから彼女がこなす仕事の時間から考えれば、瞬き一つ程度にしか思えないだろう、刹那の時間。

ルシウスの返答も聞かぬ侭外套を翻した上官に、ルシウスは背後から声を掛けた。


長官、次の休憩時間にも是非お誘い願いたい」
「其れは私の次の休憩時間までお前が残業に付き合ってくれるということか?」
「………、長官が仕上げた書類を上へ通すのは私の仕事ですから必然的に」
「良し、じゃあ次の休憩時間まで頑張るとしようか」

菫色の双眸が側方に流れ、そして声調はそのままに、ルシウスへ向けて囁きを落とす。
「長そうだがな」と吐き出した溜息は苦笑を孕んでいて。
規則正しく乱れの無い、ハイヒールの硬質な音響が連なり、静かに消える。
蒼穹の青空に棚引く薄い雲の様に、煙草の煙が尾を引いて静かにゆっくりと黙殺された。

其れから暫らく、とルシウスはこの場所で僅かな休憩を取るように為った。
ルシウスがナルシッサと婚姻し、が魔法省を去る、其の日まで。