| 雨は、好きだよ―――――冷たいけど、想い出も涙も何もかも全部、流してくれるから。 夏も終わりを迎え、吹き抜ける風が何処か心地良さと冷たさを帯び始めた。 空から霧吹きでも吹き掛けた様な柔らかな霧雨が、クィディッチ競技場丘一面に煙っている。 夏の暑い日に一瞬だけ降注ぐ俄雨とは違い、視覚だけに捉えられるその滴は、眼前に広がる少ない葉緑と、樹土の茶を静かに沁み潤わせて。 音を立てて降注ぐ訳でも無いその雨は、何処までも静謐な侭で雫の帳を下ろしているようで、古い無音映画を眺めている様な錯覚をリドルに起こさせた。 止む気配の無い霧雨に黒髪を撫でられながら、リドルが足早に城内へ戻ろうとした矢先、視界の端に異様なものを見た。 「…………… ?」 傘も差していなければ防水魔法も施して無いだろう、霧雨に濡れた漆黒の絹髪が重たげに揺れている。 降りしきる雨の中、何にそんなに興味を惹かれているのだろう……唯ぼんやりと眼差しを漂わせながら、 はクィディッチ競技場丘で独り佇んでいた。 秋時雨の春
![]() 幾ら夏場を過ぎたからとは言え、急激な温度変化が齎す体温低下は、マダムの手を焼くほど厄介な風邪を流行させた。 流行が遠ざかったどころか、此れから蔓延しようと云う矢先に、雨の脅威に身を晒しながら何かを見つけた様に歩を留め、全身で水霧を被る少女。 見詰めているのは、名も無き一輪の雑草が付けた花か。夏草が伸び切った地面に蒼花は濡れた艶を帯びて咲き、光景に鮮やかな彩りを添えていた。 細かな砂流にも似た雨音が激しさを増す中、カサリと夏草の囁く音がして、振り向きかけた の真上に小さな傘が掲げられた。 雨靄に霞む の視界には、呆れた様な表情を零しながら傘を差すリドルの相貌が映りこむ。 ―――かたつむりでも、見つけたかな。 心の中だけでそう問い掛けたリドルは緩く笑みを浮かべ、 との距離を縮める。 勿論 が訝しげな表情を零せば、それは自分が濡れない為だ、と在り来りだが絶対的に有利な切り札も持参済み。 幾分軽やかな足取りで、リドルが柔らかい草を踏み付けながら目的の場所まで辿り着けば、 が濡れぬ様にと傘を差す。 地も緑も打たなずされど絶え間無い、柔らかで穏やかな天からの落水の音に混じって、甘やかに低い声紋が の鼓膜を震わせた。 「如何したの、雨の中雨に濡れながら待ち惚け?」 「ちょっと雨に濡れたい気分だなーって。ほら、私今日真面目に魔法薬学に出たからの脳味噌沸騰してて…冷やした方が良いじゃない?」 の口から吐いて出た科白とは裏腹。 かそけしい、囁きのような調べに近い声で困ったように笑った は、傘を差すリドルに礼を言うもののあっさりと傘の中から出てしまった。 そうしてまるで空から零れる雨を抱き締めるかのように両手を広げ、そうして、瞳を閉ざす。 ひと独り分縮まった距離は が傘から抜け出した為に、また空いてしまう。 苦笑を凝らしながらリドルは独り傘に入った侭見詰めてみれば、繊かな雨を浴びて徐々に雫を飾る が、雨に抱かれて泣いている様にも見えた。 「 は…嫌いじゃないの、雨が」 「…嫌い?如何して?」 「幾ら天からの恵みだからって言っても、雨は鬱陶しいし外にも出られないし、濡れるし冷たいし、ローブは汚れるし。 メリットよりもデメリットのほうが僕には思いつきやすいからね」 だから僕は、雨が嫌いなんだ。 幾間も無く眼前に温かい気配を感じ、つと薄紫の双眸を上向ければ、端麗な相貌を少し和らげたリドルが、 の頬にしっとりと貼りつく髪を指先で掬う。 落とされる両眼の紅蓮は深く、 はそこに某かの感情を定めることは出来なかった。 リドルにとって、雨の記憶は悪夢の記憶だ。 定かに覚えている訳ではないが、最愛とした母が死んだ時、垂直落下した水跳ねの音が遠くで聞こえていた気がする。 最後の瞬間くらい、晴れても良いだろうに。 土砂降りとも言える豪快な滝壷差ながらの量を誇った雨の中、リドルの母はトムに縋る様に「トム・リドル」の名を紡いでいた。 失われた愛を唯乞うような仕草、強く強く身を竦ませ耳を塞いで、心の底から愛しき男の名だけを紡ぎ。 …そうして、事切れた直後。 水を打ったような静けさに包まれれば未だ感慨深いものがあるものだが、最後の最後まで自分と父親の区別の付かなくなった母を抱き締めて遣りながら、沸々と湧き上がる憤怒の感情は負の方向へと足を進めた。 鼓膜に忍ぶ雨音でさえも、自分を嘲笑しているようにさえ聞こえたのだ。 母が死んだベットの横溝に気怠い身を預けながら、リドルはぼんやりと紅眸を背後へと流していた。 本当に最後までリドルを「トム・リドル」と勘違いしていた母の安らかな死顔が其処に在り、だがもう二度と薄い瞼を開いて「トム」と呼んでくれない事実を知る。 押し付ける様に下方へ垂れた頭の横で擦れた黒髪が、ざ、と雨に似た細かな音を鳴らす。 母を失って、絶望に打ちひしがれた様に心を失くしたリドルは、幼いながら白痴宛らに瞳を虚ろに開き、微かに温もりが残るシーツを無造作に手で掴みながら、窓の外の移ろいをどこか意識の遠くで捉える。 雨脚が、僅か、先刻より音を増した様だった。 静寂よりも幾分気分が悪い。 何もかもを投げ出したくて、瞳を閉ざせば、聴こえるのは、天が泣くその時だけに紡がれる、何処か物哀しさを呼び起こす雨音。 何時止むのか、何時音が絶えるのかも判らず、哀切を微かに纏わせていつまでもリドルの裡に響いていた。 いつもそう、雨を見れば思い出すのは、リドルのたった一人の肉親。 そうして、雨を感じれば湧き上がってくるのは、たった一人の肉親を棄てた父親。 其れは今でも、変わる事無く、永遠に楔となってリドルの心に残る。 「ねぇ、トム」 雨を眺めながら嘗ての記憶を辿っていた紅蓮の相貌が、緩く視彩を和らげる。 霧雨が徐々に雫を大きくさせ、本格的に秋雨が降ろうかと云う天候のもと、 がゆっくりとリドルに向き直った。 薄いリドルの口唇が、呼び掛けられた返答を返そうと声に乗せようとした、その刹那。 は短く息を吸い込み、憂愁に沈んだ様な声色でリドルの言葉に言葉を上乗せした。 「私は、雨は、好きだよ―――――冷たいけど、想い出も涙も何もかも全部、流してくれるから。」 発声は淀みなく、一時とも詞に逡巡せず、雨音に混じった言葉はリドルの思考を水底から掬い上げた。 リドルの母はリドルを「トム・リドル」だと思い込みながら、棄てられた事への悲愴と幸せに満ち足りていた頃の幸福の狭間に立ち尽くしているように引き攣った笑みを浮かべながら、うっすらとした光りの満ちる室内で雨音を子守唄に息を引き取った。 あの日聞いた雨音と似たような旋律が、スローモーションの様にリドルの身体を包み込んで、飽和する。 それをリドルは慈愛のような笑みを浮かべながら、聞いていた。 鼓膜に忍ぶその音の連なりは、やはり今でもあの日の情景をリドルに思い出させる引き金でしか無かったが、如何云う訳だろうか、…… が「好き」だと言ったから、本当に僅か少しだけ好きになれたような気がした。 僅かな沈黙を挟み、リドルの相貌が濡れた手許に降り戻る。 「そうだね、じゃあ僕も流してもらおうかな」 リドルの言葉に一瞬理解不能に陥った が、「何を」と問い掛けようとし躊躇い、小さな首だけを傾げてみせた。 其の可愛らしい仕草に気を良くしたリドルは、ゆっくりと紅蓮の相貌を眇め、手にした傘を魔法で消し去る。 粒を大きくした秋雨が訥々と降注ぐ最中、癖の無い長めの前髪が水分を含んで更に下方へと垂れ、微かな苦笑を浮かべながらもリドルは と同じ様、雨に濡れて居た。 「雨には如何も、良い記憶を持ち合わせて無いんだ」 「悲しい記憶?」 「そうだね、思い出したくも無い事ばかりだった気がするよ」 「そう云う時こそ雨に打たれなきゃ、トム」 「…如何云うこと?」 物思いに沈んでいた様な風体のリドルが の方へ言葉と共に視線を投げれば、 「―――――雨が代わりに、泣いてくれるよ」 其処に広がるのは、酷く静謐な情景だった。 音も無く霧が舞い降りるかのように落つる雨は、何一つとして隔たり無く包み込むように降注ぎ、上から下まで何もかも、悲しみも切なさも怒りも恨みでさえ、洗い流してくれるようで。 泣きたくて堪らなくて、其れでも泣けない時、この少女もまたこうして雨に代わりに泣いて貰ったのだろうか。 ふと、そんな余計な詮索が脳裏に浮かび、リドルは再び微笑んだ。 「偶には雨に濡れてみるのも、悪くないかもね。」 「あぁ、雨も滴るイイ男?今度から別の浮名が付くかもね、"雨に濡れつつ女も濡らすスーパー絶倫主席・トム・マールヴォロ・リド…"」 最後まで言い掛けた矢先、隙を付いた様に雨があがり、雲間から橙の太陽が顕現した。 灰色と霧雨の城がかった靄と空の蒼と雲間の橙が織り交ざって描き出された色彩に、思わず も口をつぐんで呆然と空を見上げた。 リドルも静かに睫を伏せ空を仰ぎ見、酷く凪いだ笑みを口の端に浮かべる。 「雨上がりは………好きなんだけどな、 」 リドルの声が、低く、儚い甘露を孕んで、 に浸透する。 だが は科白の意図に全く気付く様子も無く、静謐な空気に包まれたまま、「私も好きだよ」と答えを返し。 自嘲の笑みを滲ませ、リドルは深呼吸する。 肺一杯に招き入れた息は、何処までも、優しい雨の匂いがした。 [ home ] (C) 2002-6 The fanfictions are written by Saika Kijyo. update 2006/9/23 |