肩越しを清々しく抜けるのは、仄かに若草の瑞々しい香りが混じる風。
地上を焼き尽くさんと燦々たる焔を光と成して降り注ぐ太陽眩しい、初夏の折。
全寮制のホグワーツに入学したともなれば、長期休暇の折にしか帰郷しないのは最早、一般常識。
実家がイギリス近郊にある為らば未だしも、の郷里は海を幾つも越えた東洋に存在する小さな小さな島国。
「フルーパウダーが使えたら楽なのに。」
「あら、の家は純血一家なのに暖炉が無いの?」
「…暖炉は…、あるんだけどねぇ」
一族は純粋な魔法使いの血を引けど、マグルに埋もれる様にしてマグル風の生活をしている為に、家に魔法界式暖炉が無い。
…否、正しく云おう。
暖炉はある。だが、フルーパウダーを使用することは出来ない。
家は東洋の島国でも最北端、冬季は気温が氷点下十度を下回る極寒地帯に居を構えている。故に、家にある全ての暖炉は本来の使用用途である、【寒冷から身を守るため】に置かれていた。
つまり、暖炉に投げ込まれるのは全て乾いた無数の薪であり、人がフルーパウダーを使って飛び込むなど先ず有り得ない。
唯一、昔一つだけ在った古いフルーパウダー専用の暖炉は今では見る影無く、温暖の為の暖炉へと使用されている。
「家は、マグルに在る雪国だし、いざとなればポートキーを使うから、暖炉は要らないんですって。」
実家に帰る為に必然的には、大きなトランクを片手にキングスクロス駅で自国行きの飛行機が離発着する空港へ送り届けてくれる特急に、乗り換えなければ為らない。
「あと一時間か…何処かでお茶でも飲ん……っ!?」
冬には帰郷しなかった為、実に一年振りに歩くキングスクロス駅構内。
そこで、名も知らぬ異国の鳥が飛んで来た様に銀糸の束が眼前を舞い、普段よりも数倍不機嫌味を増した相貌で私服を着こなす大人に捕まった。
マグルを侮蔑軽視する彼がマグル犇き合う駅のターミナルに現れたことに驚くべきか、私服を着ていること事態に眉根を驚くべきか、こんな場所で自分を見付けたことに驚くべきか判断に困る。
「………」
久しぶり!元気?
そんな軽々しい口を利けるような相手ではない。彼は魔法省高官、マルフォイ家現当主にして、の父親の上官だ。
グラップ家、ゴイル家がマルフォイ家に表立って仕える一族ならば、家は裏でマルフォイ家に仕える一族と云える。
魔法界に於いて、博識で知性高い血を持つ事で有名な家が在るのは自血族の為ではない、全てマルフォイ家の為だ。
キングスクロス駅、9と3/4番線ホームで眼に見えぬ上下関係の境界線が引かれた両者。
「……………………………」
勿論から声を掛ける事等出来る筈もなく射竦められるよう立ち尽くしていたら、大きな手に腕を掴まれ、支柱 と支柱の間に在る人目がつき難い場所に追い込まれた。
視界の翳りに友人が怪訝そうに此方を見ている姿が映り込み、は慌ててルシウスの手を振りほどいた。
「お久しぶりです、マルフォイ様。マグルの世界でお逢いする等、奇遇です」
「奇遇?……、マグルの世界で私と君が出逢うには"奇遇"以外有り得ないとでも?」
間近に瞳を覗き込む仕草でに触れようとするルシウスに、は慌てて一歩後退する。
「……っ、マルフォイ様、この様な場所でドラコ様に見られたら…っ、」
「困るのは生憎私ではない、君だろう?」
経過する秒数と共に距離を縮めてくるルシウスに驚き眉を上げれば、策略的な苦笑交じりに言葉を逆手に取って、薄蒼の瞳を眇める。
徐々に近付く秀麗な相貌を避ける様、後ろ背に逃げる様に後退するを如何やら神は見放したらしい。
「……っ、」
カツン、と踵が支柱に当たり反動も無い侭支柱に身体を縫い止める様にぶつかった。
の追い込まれた状況にくつりと口角を歪めたルシウスは、風に棚引く自身の
外套右裾を掌で掴み上げ、其の侭と向き合う様に掌を支柱に押し付ける。
後ろは支柱、右側はターミナルの壁、左側はルシウスの外套によって遮られ、眼前には勝ち誇った様なルシウスの相貌。
ルシウスとの身長の絶対差から、真上から見下ろさない限り、ルシウスと支柱の間に人が居るなど誰も思わないだろう。
絶体絶命、逃げられない。片手にトランク、もう片手で小さな額に掛かる前髪をかき上げながら、は観念した。
「………そりゃそうね、息子付きの従者がその父親と密会してるんですもの。悪いのは私、…と言いたいんでしょう、マルフォイ様」
「……態々周囲からお前を隔絶してやったのだ、家名ではなく名前を呼んで欲しいものだな」
「……何でよ?」
「家では君は、私の事も息子も、"マルフォイ様"と呼ぶ。…今君が呼んでいるのは、一体誰を指しているのか判らないからな」
視線に気づいて顔を向けた瞬間、そらせないまま、あわされた瞳は薄い空色をしていた。
「この状況で、この場に居ない人を呼ぶ訳無いでしょ。用事が無いならもう離し…」
瘡付いた無骨な男の掌が、ゆっくりと頬を撫でていく。
ホグワーツで出逢った嘗て恋人だった男たちの手や触れ方とは大分異なる。けれど、の知りうる限りでは、冷えた外見よりもよほど優しく温もりが籠もっている。
の期待する通りのルシウス像を見事に裏切った、暖かな指先が繊月のように頬に落ちた髪を掬い上げ。
途端に、鼻腔を擽る馨りは、彼が普段纏うそれとは微妙に異なった代物。嗅ぎ慣れぬ香りに自然と眉根が寄った。
「…、」
「……他の女を待つ為の暇潰しなら他を当たって、私は友達も待たせてるし、家に帰……」
突如駆けぬけた風に、無意識に舞い上がった髪を押さえた。そうして閉ざされルシウスしか映らない視界に、もう距離はない。
「如何しても名を呼ばないか」
「…いい加減放して、私は帰るの、判った?―――――ルシウス」
瞬く隙も与えずに、再度舞ったの髪がルシウスの鼻先でばらけた。
こんなに風が強いなら髪を結ってくるべきだった、と頬に落ちた髪の毛を左手で首筋へと押さえたと同時、結ばれた唇に冷えた唇が掠め重ねられる。
「ちょっ、ル………」
抗議の声をあげようと名前を紡ぐ前に、抱きしめられて喉の奥が詰まった。
抑えていた髪が花の様に揺れ、さらさらと鬱陶しく靡いては舞い上がるのに、指は動かない。
「」そう小さく名を呼ばれ頑なに瞼を下ろした。鼓膜を震わせる声は只管に心に染みる。
「良いか、君はホグワーツで熱を出し、帰郷が一週間ばかり遅くなった」
「………は、い?」
「―――キングスクロス駅18番線に15時、だ」
判ったな、と念を押され、困惑しきったの眼の前に見知った梟が降り立つ。
ルシウスが可愛がっている梟がのトランクの上に一枚の切符を静かに置いて、ゆっくりと羽ばたいて飛び立っていく。
気付いた時にはルシウスの姿は無く、消えゆく後姿をは僅かにに目を細めて見遣り、それから視線を戻した。
「如何したの?またマルフォイになにか……」
「……いえ、招待状を貰ったの。」
「招待状?」
慌てて駆け寄って来た友人はの言葉に数度瞬き、再度尋ねようとしたタイミングで忘却魔法を施し、姿晦ましを掛ける。
「私、明日誕生日だって事、今思い出した」
――――普通に渡せば良いのに。
押し殺した呼吸の隙間、抑揚に欠けた心声にも躊躇うそぶりはなく、は緩く破顔した。
既に後姿さえ見えないルシウスが消えたホームへ、穏やかな表情のまま、まっすぐに視線を向ける。
数時間後。
周囲を海だけに囲まれた名すら付けられていない様な小さな島で、ルシウスとの姿を見たものは誰も居ない。
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