ついと見上げれば身体ごと吸込まれそうな、幾数多の星散った空が酷く綺麗な夜。
蒼白い満月が冴え冴えと、この世界を溺れさせるようと月光を惜しみなく降り注がせる。
ルシウスは独り自室の窓から見える其れ等を肴に、真紅に近い色したワインに満たされたグラスを傾けながら、驟雨より密やかに、雪より丁寧に漆黒へと染まる
小さな銀色の星を唯見詰めていた。
「冬の空も一興だが、夏の空も棄て難いな」
如何と云う事は無い。
眠れない訳でも無ければ寝つけぬ訳でも無く、況して仕事が圧している訳でもなかった。
理由無くワインのコルクを抜きグラスへ注ぐと、椅子に座る訳でも無く磨き抜かれた窓に寄りかかる様にして、彼は蒼白い光の洪水の中に立っていた。
「――――――ルシウス様、起きていらっしゃったのですか?」
月の色にも似た硬いソプラノに似た声が開け放した窓の下方から聞こえ、ルシウスは視線を下げた。
視界に居れずとも判る、其処に居るのは、今は自分の息子であるドラコの婚約者と為った、ルシウスの愛しい女。
シルクのガウンに薄い外套を羽織っただけの恰好で、湯気立つ珈琲カップを持ったまま、階下からルシウスの部屋を見上げていた。
「、如何した、もう寝ていた筈だろう」
「夜中にふっと眼が覚めたんです。そしたら咽喉が渇いてしまって…先程侍女の方に淹れて頂いて」
「そうか。幾ら夏とは云え、その様な恰好では風邪を引く。一体何処へ行くつもりか」
「―――――ルシウス様の、お部屋へ行こうと」
バルコニーに両腕を落し、僅かに屈みこむような体勢で下方を見遣れば、は嬉しそうな表情を小さな顔に貼り付けて婉然と微笑んだ。
月にも掻き消されぬ薄桃色の唇を微笑みの形にした端麗な顔が、じっとルシウスを見上げている。
僅かに吹く名残の風に優美に波打つ長い黒髪に月光が弾けて、その影で出来た薔薇の美貌を際立たせていた。
「眠れないのか」
「少しだけ…昔の頃の夢を見て、」
続きを何か言いたげに僅かに口を動かしたが、その奥から零れてくる物は無かった。
其の侭はルシウスに背を向け、蒼白い満月を仰ぎ見ながら闇の中から星の残滓でも見つけ出そうとしているかのように、口を噤んだ。
幾ら上方に居るとは言え、此処からでは背を向けた小さな少女の相貌を仰ぎ見ることは出来ない。振り返ろうともしないを、ルシウスは無理やりに此方に向
けようとは思わなかった。
況して、自分が魔法を使いの隣へ舞い降りることも、躊躇うどころか選択肢の一つにも選ばれて居ない。
代わり、ワイングラスをバルコニーに置いたルシウスが、ゆっくりと薄い唇を開いた。
「どんな夢を?」
「……ドラコと、昔この庭で当たり前の様に話してた、話です」
「ほぉ、何かな、内容は」
降りさす月彩は緩やかに庭先とバルコニーに忍び寄り、それと相俟って不協和を増した胸裡の軋みは、薄紫の瞳をその頬に沿う夜の帳色した髪の流れの影に隠れ
させる。
夜が明ける前の空よりも深く薄い菫色をした切れ長な目を伏せ、が苦悶の表情を見せる。
勿論ルシウスに見える訳では無いのだが、は手にした珈琲カップを握り締めながら、俯いた。
低迷し始めた思考回路の片隅に置き忘れていた筈の、昔懐かしいあの会話が、今では警報機か何かのような波及した音を伴って凛と鳴り響く。
『ねぇねぇ、ドラコ、ドラコはのこ
と、すき?』
『な、なんだよ、いきなり…』
「昔、此処でドラコと話をしていたんです。未だ、五歳にもなる前の、ある夏の日」
『ドラコはのことが好きですかー?』
『……………………』
「近所の女の子と…確か、好きな人に好きって言えるか、そんな些細な話をしていたんです。」
『いいもん、ドラコが好きじゃなくても、
はドラコが好きだもん』
『……………………』
「好きな人に、好きって言われたいよね、小さな子どもの考えることです。だから私は…」
『じゃあ、もう一回聞くよ?ドラコは
―――――――』
月夜独特の薄蒼い闇が忍び寄る夜天光の下。
夜風に髪を靡かせた髪が揺れ、がゆっくりと振り返る。
顎から頬にかけての線は、未だ幼くふくりとしていてまろいのに、見上げた相貌は歳相応の大人びたもので、その中央で儚げに揺れる二つの瞳が真っ直ぐにルシ
ウスを見た。
その様子に眉を顰めたルシウスが、一体如何したのか、と口を開きかけた瞬間、掠れた吐息が刹那に零る。
「……私のこと、好きですか?」
覚えず漏れた恋愛情緒漂う科白はも意図しなかったもの。
こう云うことを、ルシウスが好まないのは良く知っていた。だからこそ、無意識とは言え吐いてしまった言葉の重大さには項垂れた。
具に後悔する。既に口から零れてしまったことだ、後悔しても遅いのだが、悔いた。
こんな言葉を告げる為に此処に来た訳ではない、こんなことならば大人しく部屋で眠れない時間を過ごしていれば良かった。
悔やみながら、それきり唇を歪め押し黙ってしまったに苦笑を刷くも、ルシウスは薄蒼を薄く細めながら、「…」と囁くように呼びかける。
そうして、
「 」
普段は冷えた絶対零度のような低いルシウスの言葉が、どこまでも静かで優しい静謐な冬の雪の様に感じられた。
雪が水上に落ちて溶け入る様にゆっくりと染み渡っていくようなその声が、の心を綻ばせ、恐る恐る顔を上げ。そうして、その薄紫の目を逸らさずに、真っ直ぐルシウスを見て静かに口を開く。
「私も同じです、ルシウス様」
靄で潤んだように歪む視界に、おいで、と手招きする様に薄く笑みを引いたルシウスが映り込む。
踵を返せば、懐かしいあの夏の日にドラコと見た、縊られた薔薇の花弁が数枚ほど散らばり、形の良い枝付きのものの周囲を彩っていた。
そうか、薔薇が咲く時期だったから、若しかしたら昔のことを思い出したのかもしれない。
悪夢とも呼ぶことの出来る、昔懐かしい、記憶に引き摺られ、魅入られたのは事実であっても。
だがもう二度と思い出すことも無いだろう、意識の水底で記憶を巣食うように根付いていた過去の柵は、ルシウスがに告げた一言で、終焉を迎えたのだか
ら。
これから何度夢に見ようとも、あの科白の後にはルシウスの科白が落ち重なるようにして聞えてくるだろう。
――――――いや、私はお前を愛しているが?
一瞬だけ凍りついたその表情が綻ぶまでに、不意に切なく泣き出しそうに歪んだのを、ルシウスは見逃さなかった。
そう、どれだけ愛しいと想い愛に塗れた言葉を渡し傍に在ろうとも、二人が本当の意味で交わることは、無い。
気づいていた。出会ったその瞬間から、男は人の夫であり、人の父親だった。
けれど、冷えたアイスブルーの瞳の奥で狂おしい程の情熱を抱えて真直ぐに見詰められ、刹那であろうと温かい腕に縋ったのは自分。
この腕が絶対に自分のものにはならないと、好きな男の傍に在るためだけに、其の息子の好意を利用しようとも、それでも。
其れでも―――――愛してしまった。
その感情を一体如何表したら良いのか分からず、唯、溢れようとする想いを堰き止めるのに必死で。
ルシウスは、今まで一度も明確な言葉を、くれた訳ではなかった。
でもどれだけの想いをルシウスがに注いでくれたのかを知っている。
言葉が、必要な訳ではなかった。
そんな事しなくとも、伝わる想いだけは確かにあった、そしてその想いを受け入れる事は許されないと知っていたから、言葉にならなず言葉にしないものだと思っていただけ。
手を取った先に未来はないと知っていたから、見ない振りをしていただけ。
手を伸ばしたら、触れたら何かが崩れてしまうのを知っていた。
なのに、聞く事すら叶わないと想っていたルシウスからの愛の言葉に、心臓の鼓動が跳ね上がる。
手を伸ばしても許されるのか、と錯覚する。
はゆっくりと踵を返し、ルシウスが待つであろう部屋へ向かう為に、毛足の長い芝生を歩く。
星明かりだけが僅かに輝く部屋の中で二つの影が重なるまでそう――時間は掛からなかった。
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