炭酸水に溺れた金魚 as Lucius Malfoy

揺らり揺らりと蒼穹の空の合間をたゆたう白い雲の様に、朱色のリボンで結われた銀色のターバンの様なひと房の髪が空間を泳ぐ。
昨日からの労働過多と徹夜明けが思考を低迷させているのだろうか。
頬杖を付きながら暫くの休憩を取っていたの直ぐ眼の前、男が羽ペンを忙しなく動かし隣に置いた未処理の羊皮紙を取る其の度に、ゆらりと、銀糸の尾が揺れる。
暇潰しがてらに眺めていたは、揺れる尾を淡い紫の瞳で追い掛けていた。

…金魚、みたいだな…、と変に片言めいた発音が聞こえたのは、夏の盛りの魔法省高官ルシウス・マルフォイの執務室でのことだった。


「…金魚?金魚とは何だ?」

右から左へと羊皮紙を流していたルシウスが、の独り言にも似た科白を一度は聞き流したのだが、「やっぱり金魚だ」と今度は些かはっきりとぼやいた為、訝しげに羊皮紙から視線を剥した。

「金魚って、金魚ですよ。マグルの世界に住んでる朱色の魚です。知りませんか?」
「いや…昔マグル学で習った記憶があるが、一体何を見て金魚みたいだと?」
「貴方の髪、です。朱色のリボンが揺ら揺ら揺れるから、まるで水の中を泳ぐ金魚みたいだな、って」


硝子鉢の中薄蒼の世界で長い尾を揺らし、優雅に泳ぐ朱色の魚。
マグル学の教科書で見た其れは、動くフォトグラフの中で静かにゆったりと泳いでいた。
確か色は朱色ばかりではなかった記憶があるが、どれも確かに長尾を持っていた気がする。

ルシウスが記憶を頼りに思い出している片隅で、は疲労の限界からか、頬杖を付いていた腕を枕代わりに小さな頭をゆっくりと埋没させていった。

「……怒らな……いの、……です………か?」
「徹夜明けの上に多忙を極めているからな、思考回路が可笑しくなったと思ってやろう」

答えた後、瞼あげたルシウスの眼に飛び込んできたのは今にも片船を漕ぎ出しそうなの姿。
自嘲気味に薄く笑ったルシウスは、数時間ぶりに羽ペンを机上に置くと、す、と立ち上がる。
空気の動く気配がして、は意識を闇の淵から掬われた。
重たい眼瞼を押し上げてまどろむ双眸を緩く繰れば、呆れた様な表情を貼り付けたルシウスの姿があった。


「申し訳ありません、私よりも貴方のほうが疲れているのに…」

申し訳無さそうに少しだけ薄紫の瞳を眇めれば、ルシウスは自らの外套をの背に覆い掛ける。
ふわりと馨る独特の香水。
仄かに残る温もりの感触が心地良くて、再びは眠りに攫われそうになってくる。

「少し寝なさい、帰して遣りたいが今日も未だ仕事が増えそうだからな」
「でしたら、私よりも…」
「良い、私は仕事をしていたほうが眠気が取れる。一時間後に起こすから其れまで寝ていろ。上官命令だ」


はい、と寝醒めの掠れた低音で応え、はやはり背で揺らりと揺れるルシウスの銀糸を横臥したまま仰ぎみる。
大きく開かれたバルコニーへと続く透明な窓ガラスには酷く綺麗な蒼穹の空が広がり、薄く千切れた雲が空に霞んで泡がふかりと浮いている様にも見えるのは、半分以上が猛烈な睡魔による霞が原因だろう。
朧で空ろな眼差しで見詰めていれば、大きな金魚鉢に満杯に浸された蒼穹の空の様な水中の中、炭酸水の気泡の様な微少の泡が浮かぶ中で、まるで空を乞うて居る金魚のように揺れるルシウスの髪が在る。


此れでルシウスが箒にでも乗って空を飛んだら、まるで空を泳ぐ金魚だね…でも、炭酸水の中を泳いだら溺れちゃうよ、と妙な事を思いながら既に思考回路の半分以上を睡魔に持ち去られているの口からは、胸中に侍らせた言葉は漏れなかった。


薄い瞼閉じ、本格的に熟睡するまでにの脳裏に描かれていたのは、硝子鉢を優雅に泳ぐ、朱色の魚。


その金魚がを見詰めてゆっくりと、感嘆を滲ませた苦笑を浮かべた。







[ back ]
Written by Saika Kijyo Title by 不在証明