私が『其れ』を見付けられたのは、ひとけの無くなったルシウス邸に眩しい陽射しが降り注いだある日の早朝、本当に小さな偶然が幾つも重なって垣間見れた些
細な奇跡に似た確率。
この屋敷には其れこそ一人で歩くことすら適わない稚児の頃から母親だったり父親だったりの腕に抱かれながら、殆ど家族の様に訪れて居た。だのに、
今まで一度たりともお目通り叶わなかった…いや、マグルと云う血を嫌悪するあの人がまさかマグル製品を身に付けている等、考えもしないだろう。
父親から文を手渡され、至急ルシウスに届けて欲しいと言われたのは明朝、明けの鳥でさえも未だ寝静まっている様な時分。魔法界に居るのだから梟便でも飛ば
せば良いのに、万が一の事を想定して私に託したのだろうか、重厚な魔法が施された手紙には我が家の家紋で蝋留めされていた。
「良いな、早々に渡してくるのだぞ」
有無を言わさぬ父は一言告げて踵を返すと、私の返事も聞かずに書斎の奥へと引っ込み、来月の学会に向けた研究の続きでもしているのだろう、小さな爆発音が
幾つも木霊する。
はぁ、と一つ溜息を吐いて箒を呼び寄せ、マルフォイ邸に到着したのは丁度太陽が蒼穹の空を昇り始めた頃。早朝に訪ねて行って失礼に値しないだろうか。示唆
しながらベルを鳴らせば、執事が「ルシウス様はお庭にいらっしゃいます。どうぞ、お向かいに為られて下さい」とあっけらかんと言われ、敷地の裏手にある石
造りの荘厳な建物―――――基い、庭へ続く玄関を潜る。
「……ルシウス様?どちらにいらっしゃいますか?」
朝露で湿った、白い陽射しに照らされるマルフォイ家の庭。
青々と茂る芝生に謝りながら足で踏み付け、光りを受けて様々な色彩に変化する噴水の脇を通り過ぎ、今が盛りと咲き誇る花壇の花に感嘆しながら、一際太陽か
らの恩恵が燦々と降り注ぐテラスまで辿り着けば変わらぬ声が耳を掠めた。
「か、如何した、随分早いな」
掛けられた柔らかく低い独特の音程、カサリと置かれた予言新聞の音、芝生の上を靴が滑る枯れた音が一対しか聞こえない事から、ルシウスは従者も付けずに一
人で此処に居る事が判った。
最後の障壁とばかり、無駄に高だがと建造された巨大な角塔型の建物が、真夏の空の下に巨大な影を落としていた。ゆっくりと潜って返答を返そうと思い、口を
開いた瞬間――――――
「父からルシウス様に至急読んで頂きたい文を………………………………………」
咽喉奥から紡いだ筈の言葉、音に為る前に飛び込んで来た光景に、息を呑んだ侭吐き出す言葉を失った。
深い蒼穹を埋め込んだ様なアイスブルーの瞳、しどけなく解けて流れる銀河を縒り集めたような束の如き銀糸。冷厳な印象を拭いきれない切れ長の双眸、を見て
硬直した。瞬きを何度も繰り返してしまうのは本気で夢でも見ているのではないかと頬を抓りたい気持ちの表れだ。
「如何した、」
「あ…の、ルシウス様、何の冗談でしょう、私にはちょっと笑えない冗談にしか見えませんが」
「笑えない冗談?私がいつ冗談など――――――」
怪訝そうに眉を顰めたルシウスの言葉を半分聞いているようで、やはりルシウスの『それ』が気になって仕方が無いのか、私が一心に見詰めていれば如何やら彼
も気付いてくれたらしい。
脇に置かれた新聞を読む為に必要だったのだろうか、片手でフレームの部分を掴むと無造作に隣に置いた新聞紙の上に投げ置いた。形状記憶なのか特殊な魔法が
掛けられているのか、其れ――――マグルの世界では『眼鏡』と呼ばれている物体はフレームを損傷する事無く鎮座した。
「眼鏡が珍しいのか?」
「いえ…珍しいと言う事よりも先ず、ルシウス様がマグルのモノを使用されている事に肝を冷やされました。」
「そうか、珍しいか。意外だな、ドラコに聞くところによれば、ホグワーツではマグルの友人も居るそうじゃないか。純血一族家令嬢の君の方がよっぽど肝に
冷える。」
困窮する様に苦く笑ったルシウスは、父からの手紙を早く読みたいのだろうか、小さな子どもを呼び寄せる様に手招きする。大人しく素直に歩み寄れば、私の手
から手紙をするりと取り上げ、用事は済んだとばかり腕の中へ囲おうとする。早朝とは言え、此処はマルフォイ家。ナルシッサも居ればドラコも居る。もう小さ
な子どもではないのだ、抱き締められている姿が露見しようものなら一大事、避けようと一歩後退する。
が、豪奢な彫刻の施された陶器製の椅子に腰を落としたルシウスにあっと言う間に
抱き上げられ、膝の上に落とされて仕舞う。
抗おうと身を捩れば、耳元から聞こえてきた「此処へは私が許した人間しか入って来れぬ、だから安心しなさい」と悪魔の最終勧告に呆気無く理性は陥落する。
仕方ない、だってこうして二人きりで逢える事など、一月にあるか無いか、だ。
「此れはマグル製品ではない、君のお父上が次の学会に発表する試作品だ。」
「え、父の試作品、ですか?其れを一体何故ルシウス様が?……もしかして、老眼ですか?」
至極真面目に聞き返せば、ルシウスは中央に寄る眉の付け根に指の腹を押し当て、深く大きな溜息を吐いた。若しかして機嫌を損ねただろうか、もう少し言葉を
選べば良かった、と慌てて謝罪の言葉を述べれば、
「君にしたら私は…君のお父上と同じ様なものだからな、今痛烈に実感した。」
「い、いえ、別にそう云う意味で言ったんじゃ…!」
「弁解などは要らぬ、そんな詰らぬ言葉に時間を費やせるほど…私を君の時間は夢幻ではあるまい?」
確かに…、と小さく呟けば、ルシウスは私に横槍を入れられた話の続きを滔々と語り始める。
ルシウスが持っていた眼鏡はマグルの眼鏡と非常に似通っているが、実際は眼鏡ではなく『ある特定の性質を持った液体で記載された羊皮紙から文字を読み取る
眼鏡』らしい。
何の変哲も無い羊皮紙に、特注のインクで文字を書く。羊皮紙にインクが染み込んだ時点で文字は羊皮紙と同じ色に溶け込んで、透かそうが魔法を掛けようが水
を掛けようが、対応する眼鏡を掛けて見なければ文字は一切現れないという仕組みだ。勿論、一つのインクに付き一つの眼鏡が対を為している為、一つの眼鏡で
複数の種類のインクで書かれた羊皮紙を見ることは出来ない。―――――― 一種の暗号化に近い。
「…父はそんなものを作っていたんですね。全く知りませんでした。」
「公爵の研究は魔法省の機密事項だからな、来月の学会までは公になど出きぬだろう」
「………ルシウス様には試作品を送るのに、機密事項なのですか?」
「あぁ、此れか?此れは製品の機能を一部しか兼ね備えていない単なる試作品だ。来月学会で発表されるものは…恐らく、魔法界を揺るがす発明品の華麗なる
オープニングセレモニーに為るだろう。素晴
らしいお方だ、君のお父上は。」
「………頭にタオル巻いて飄々とお風呂から上がって牛乳一気飲みするあの男が?」
「…………それはナルシッサには伝えないで遣って欲しい」
思わず嘗ての友人の姿を脳裏に侍らせたのだろう、苦く笑いながらそう言った。
「ところで――――この眼鏡、私は甚く気に入っているのだが、眼鏡を掛けた私姿は、君の秀麗な顔を硬直させてしまうほど不釣合いなものだったか」
「あ………」
言葉に、先程の情景がフラッシュバックする。
不釣合いだと思わせてしまった態度を取った事を心底悔いた。確かにマグル製品を嗜んでいた様にも見えたルシウスに一瞬肝を冷やされたが、其れ以上に…普段
見たことの無い眼鏡を掛けたルシウスの異なる一面に稚拙な胸
がときめいたのは事実だ。
きっと今、私は頬を紅く染め上げているだろう。僅かに心臓の鼓動が早い気さえしてくる。
「?」
乾いた夏の風が吹いてきて、自然に流されたルシウスの見事な銀糸をふわりと揺らす。有り難くも風が吹いてくれたお陰で、舞い上がった自身の髪に表情が隠れ
てくれる。
問われる冷えた声に、消え入りそうな声がやっと出た。
「似合っていました。見慣れない姿だったので…一瞬、別人かと思うくらいに、」
「其れは結構。眼鏡一つで君に嫌われでもしたら、私は――――――――」
「嫌いませんよ、例えルシウス様が鼻眼鏡掛けてても……笑いはしますが、嫌う事はありません。」
「そうか、其れほど私を好いているという事か。」
「そうですよ、鼻眼鏡位で揺らぐような愛情じゃ…………」
言い掛けて、薄蒼の視線と真っ向からぶつかって、告白染みた科白を朝っぱらから言っている事を自覚すれば、頬が血が昇り、耳まで赤く染まった。見詰められ
れば、咽喉と身体が妙に震えて、うまく声にならない。あ…その、愛情って言うのはだから…、と意味を為さない言葉ばかりを言い訳がましく私は呟いた。
その些細な声を聞き逃さず、ルシウスはゆっくりと聞き返してくる。
「愛情ではない、と?」
「………………、」
答えようとした途端、秀麗な顔が視界を遮り、両手で柔らかく頬を包み込まれ口吻けられた。懸命な判断だ、誰も居ないとは言え、此処はマルフォイ邸。先日か
ら、ドラコとの婚姻を結ぶ為の花嫁的立場に居る私にとって、こんな些細な事で全てを溝に棄てる訳には行かない、絶対に。ルシウスを、手に入れるチャンスを
逃す訳には行かないのだ。
夏の風に、花壇の花々が揺れ、幾つもの花弁が蒼穹の空を舞った。
噴水の水は音を立てて流れ落ち、名も知らぬ小鳥のさえずりが心地良く耳に響く。
夏の陽射しと、ルシウスとしか居ない荘厳な庭園に、暫しの、安らぎの時がゆっくりと流れ落ちていく。
|