溺れる魚







「 ルーピン先生、
 魚でも、溺れることってあるんですか? 」












水槽の中で優雅に泳ぐ熱帯魚を眺めながら、はふとした疑問を声に出した。
ゴポゴポと音を立てて、水槽内に空気を送り込むポンプの音が静かに室内に響いて、熱帯魚が出来たばかりの気泡の中を我が物顔で泳いでいる。
何処の国の、どんな海で育ち、生き抜いてきたのかは判らないけれど、綺麗な色彩に彩られた魚たちは、水槽を見つめるを面白そうに一瞥しながら自由に泳ぎまわった。
ルーピンの部屋で熱帯魚を飼い始めてから、水槽を食いつくように見つめるの姿は度々ルーピンの目にも入る。
自国に存在しない魚な為か、図書館から本を借りて、どれがどの魚かを調べては、楽しそうに眺め続ける。












毎日毎日飽きもせずに眺めることを繰り返す様は、新しい玩具を手に入れた子供のようで。
そんなの行動に、微笑まずにいられないルーピンは、遠くからを見つめ続けた。
今日もそれは変わることは無く、溜まり過ぎたレポートの採点に追われながら、ペンを只管走り続けさせ、時間を忘れてしまう位に次から次へと採点を終えていく。
そんなルーピンではあったけれど、問い掛けたの疑問内容に、その手を休め、顔を上げた。
其処には、何時もと変わらぬ愛しい恋人の姿がある。












「 ”溺れる魚”か…。
 確か、昔聞いたことがあるよ。
 泳ぎが得意な魚でも、泳げなければ生き抜いてはいけない魚でも、
 溺れて命を落としてしまうことがある。
 ってね。 」












彼独特の柔らかい微笑がに向けられた時、は自然に顔に紅が走ったのが判った。
慣れているとはいっても、ルーピンが自分に向けてくれる微笑は、一般の生徒に向けるありふれた笑顔とは何処と無く何かが相違していて、その魅力的な微笑に心が奪われる。
浮かんだ疑問など一瞬で吹き飛んでしまうような、そんな微笑。
その表情の全面に、優しさと人柄と温かさを映し出しているようで、自然に心が柔らかくなる。
しかも、その微笑を向けられる対象が自分だけだという優越感も手伝ってか、の心臓は早鐘を打ちっぱなしで。












「 魚が、溺れて命を落とすんですか…? 」












心に浮かんだ彼への愛しさと、心のドキドキとした圧迫感が必死に交錯する中で、は俯きそうになりながらもそう告げた。
見てはいないけれど、水槽の中の魚は、優美に泳ぎまわり、溺れるていることなど無いのだろう。
それを否定するかのように、の言葉を肯定するように、ルーピンはもう一度柔らかく微笑んだ。












「 魚は溺れることは絶対に無いと思っていたのに。 」






「 万物は何でも何かに溺れるものだよ。
 例え、”溺れるはずがない”そう認知されるものであったとしてもね 」






「 水泳選手が足を取られて溺れてしまうように…
 って事ですよね? 」






「 そうだね。
 この世界には"完全”と呼ばれるものは無いのかもしれないね。 」






「 泳ぎの得意な貴方でも…
 溺れることもあるんだね 」












ルーピンに対してくるりと背を向けたは、目の前の熱帯魚に向かって語りかける。
其処には相変わらず華麗に泳ぐ魚たちが居る。
深蒼の水の中を、自由に泳ぎまわる魚たちも、自分にとっては慣れ親しんだ存在である"水"に対して、恐怖感を覚えることが有るのではないだろうか。
非常によく知っているからこそ、それが敵に回ったときに感じる恐怖を一番知っているのではないか。
溺れる魚。
それは人間にも当てはまるものだと、は痛感した。
自分が持つ魔力が、自分の最大の見方であるはずの持つべき力が、最大の敵に寝返る事だって有り得ないとは言い切れないのだ。
学べば学ぶほど身に付いていく、恐ろしいほどの魔力に最初は全身に冷や汗が走るほどで。
今となってはそれが当たり前になってはいるけれど、当たり前だからこそ…それが恐ろしいものなのだと思い知らされる。
慣れてゆくことこそ、溺れていることなのだと。












は溺れたことがあるかい? 」







「 いえ…思い当たる限りでは一度も…。 」






「 私は、溺れてしまった事があるよ。 」







「 ルーピン先生が、ですか?? 」






「 そう。
 魚が生きていく上で無くてはならない"水”に溺れたように。
 でもね、
 溺れてしまってもいいことも有るんだよ? 」









「 溺れてしまってもいいこと? 」












ルーピンの言っている事が決して難しい訳ではないのだけれど、理解することが難しくて、は頭を悩ませる。
魚が溺れてしまったら死んでしまうだろうに、溺れてしまったほうがいい事とは何なのだろうか。
思い返してみても、が何かに溺れたということは今まで一度も無い。
疑問だらけが脳裏を掠めるだけで、何かが思い浮かぶことは無かった。












「 私はに溺れているからね。
 溺れたほうがいいことも…あるだろう? 」












にっこり微笑んだルーピンが、そう告げた。
後ろ向きだから、ルーピンが笑っているか居ないかは確かめては居ないけれど、きっと笑っていることだろう。
何時もと変わらぬ微笑で、そう告げたのだろう。
そう考えたら、再び紅が全身に走って、振り向けなくなってしまった。
振り返って、ルーピンの顔を見て、自分は何を話せばいいのか。
”何にも溺れた記憶が無い”
そう言ってしまった手前もあってか、ますますその思いは強くなるばかりで…
けれど、今更ルーピンが言ったように言ったところで、遅いという話。
切り出す会話の第一声も思い浮かんでこなくて、ルーピンが何かを切り出してくれないかと切に願う。












暫くの沈黙を覚悟していたではあったけれど、その静寂は大した時間も経たずにルーピンの言葉によって掻き消される。
けれどそれは、が予想もしていなかった言葉で。
寧ろ、自分から話題を無理やりにでも切り変えれば良かったと後悔してしまうような内容で。
でも…
決して「聞かなければ良かった」と後悔するような言葉ではなくて。












押し黙ったに対してルーピンは…
自信に満ち溢れた口調でこう告げた。












「 大丈夫だよ、
 ちゃんと私が溺れさせてあげる。
 ”溺れなければ良かった”
 そんな考えさえ浮かばないくらいにね。 」












透明な水槽に逆光が射し込んできて、ガラスの板に真後ろがうっすら映って見える。
ちらりと其処に眼をやると、が今日見た中で、一番の微笑を浮かべたルーピンが其処にしっかりと映っていた。
水槽のガラス越しに視線を合わせた二人。
ゆっくりもう一度、柔らかく微笑んだルーピンが、手にしていた羽ペンを机の上に置いて立ちあがる。












この後の出来事は…
水槽の中の魚だけが知っている。










□ あとがき □

…ありきたりなネタでしたでしょうか。
申し訳ありませんでした。
魚たちは何を垣間見たのでしょうか(笑
きっと溢れんばかりのルーピン先生の愛が…(爆

と、いいますか…
ヒロインもルーピン先生に溺れきっていると思うのは私だけでしょうかね(苦笑




+++ ブラウザバックで戻って下さい ++++