最低だ、と漏らしてしまいそうな柔な口を戒める為に唇を思い切り咬んだ。
僅かに滲む鉄の味、眼の前で繰広げられている事実を再確認させられるようで、腹立たしい。
最悪だ、と踵を返そうとした瞬間に悪魔にでも魅入られた様に足が竦んで動かない。溢れ出る血は堰を切った様に咽喉奥へ流れ込んでゆく。
一秒でも早くこの場から姿を消し去りたいというに、身体の現実感が無くなり、足が先に進まなくなる。
…っ、何で、こんな処でっ、
そんなの葛藤露知らず、暗がりで女の腰に手を添えて優雅に微笑む男は、トム・マールヴォロ・リドル。
スリザリン寮監督生兼スリザリンが誇る、容姿端麗才色兼備頭脳明晰な学年主席。
ホグワーツに於いて名を知らぬ人物は居ない程の有名人、浮いた噂は数知れず、しかしが実際にその現場に居合わせたのは初めてのことだった。
「私、本当に貴方の事が大好きだったの。本当よ?」
知っているよ、でも、ごめんね。
嘘で塗り固められた言葉を一瞬の逡巡無く吐き棄て哀しげに瞠目したリドルは、柔らかい亜麻色したショートヘアの後姿の女を、壊れ物でも扱うように優しく抱き寄せ、口付けをひとつ。
大切そうに愛しむ様に紅蓮の双眸和らげて、彼は女に「さようなら」と言う。
彼女が如何云う表情をしているか、此方からは窺えない。だが、彼女を抱き締めている当のリドルは最低だ。
二人の間に【別れ】と云う帳が降りた事は幸運な事だよ、と口走りそうな唇を再度噛み締める。
……彼、トム・マールヴォロ・リドルは、の視線に気付いた途端、口角を吊り上げ艶やかに笑っていたのだから。
サイレン
あぁ、如何してこう為ったのだろう。今日は厄日か?其れともこれから起こり得ることへの前厄か?
あの時唇なんて噛み締める事よりも先ず先に、あの視線に絡め取られる前に踵を返すべきだった、とは内心舌打ちする。
ふと、通りがかった天文学別塔へ続く階段の翳に横目で視線を遣ったのがそもそもの間違い。
何か目に入った、という訳ではなく直感の類。虫の知らせとでも言うべきか、日頃の行いの悪業が全て降り掛かってきたと言うべきか、兎に角其れは視界に飛び込んできた。
所謂、『最近トム様に出来た新しい恋人のうちの一人との、後腐れのない巧い別れ方』の実践現場。
見たくも無い現場を結果的に終始目撃する羽目に為り、は薬草学の教科書三冊を抱えたまま盛大に溜息を吐いた。
「感動のエンドロールに立ち会った感想は溜息だけ?」
「感動?何処がよ、人目に付かない暗がりへは視線を投げないこと、そんな教訓を得ました。」
「他には?」
「相変わらず浮名の通り、スリザリン寮監督生は最低男だったって再認識しました」
呆れた様に吐き棄てれば、間隣を平然と連れ添うように歩くリドルが口の端を緩めながらこう聞いてきた。
「、君恋人居たっけ?」
居なかったよね、確か。と付け加えた意図、別に持って回った駆け引きをするつもりも無かった。
今日の講義は薬草学あった?と問い尋ねるような、そんな見え見えの意図でもって常套句を口にする。実際、これぐらいのストレートさの方がこの子どもとは上手くいった。
案の定、氷のような美貌に凄絶なまでの不機嫌味を貼り付け、が切り返してくる。
「リドルには関係無いでしょ。其れより、何処まで付いて来る気よ、私グリフィンドールへ帰るのよ?」
まさか寮まで付いて来る気じゃないでしょうね、と睨み上げれば、紅蓮はうっすらと双眸を眇める。
「こう見えても僕、暇なんだ。今日遊ぶ予定だった子とさっき別れちゃったし」
「自業自得でしょ、貴方が彼女と別れたことと、こうして私の隣を歩いていることと、一体何の関係があるのよ」
興味深そうな眼で見遣るリドルを、は睨んだ。
ホグワーツ中を探してみても、あのリドルを真っ向から睨み上げる存在は、彼女……現・グリフィンドール監督生くらいなものだろう。
だが生憎とリドルにの睨みは凄みすら与えないのか、さらりと何時もの柔らかい笑みで切り返し、眼差しを靡く黒髪へ落とした。
「関係、あるよ? 君がさっきあの場所に居たから、別れようって思ったんだからね」
菫色の双眸が、零れんばかりに見開かれる。
「……やっぱり最低だ、リドル。寂寞感漂わせながら、あんなキスして 」
低い、怒りの声。
は言いかけて喉が詰り、苛立ちも露に睨み上げる。
だが屈する事無くリドルは微笑んだ侭、口唇から自然、吐息が零れた。
に悟られないようもう一度だけ微かな息を漏らして、リドルの指が自身の黒髪の被る柔らかな唇に触れた。
「どんなキス?」
紅蓮の眼をした悪魔が微笑み、目の前の口唇からまた、吐息が零れた。
先程の別れのシーンと同じ、あの女性にした仕草と同じ所作で、リドルがの髪に、頬に、唇に触れる。
睨み付けても、双眸を細めて笑みを刷く唇があるばかり、後は申し訳程度に早鐘を打ち鳴らしっぱなしのの心臓が添えられて。
どんな女も堕ちる、と賛美された秀麗な微笑み引き下げて、丁度良く現れる空き教室の壁に細い肢体を押しやる。
見上げてくる菫色に滲む情彩は、咎めと許容の入り混じった微妙なバランスの色合い。
癪に障る、といったところだろうか。無論上等だ、とリドルは手を繋ぐ仕草で指肢を絡め、生成り色の壁へと押し付けて。
「僕に、 教えて?」
ゆっくりと傾いだ黒い前髪がの額をくすぐった。
顎先を拇指で捉え、今にも叫びだしそうな柔らかな口唇の上にリドルのそれを重ねる、その一歩手前。
吐息の合間に囁くようにもう一度問えば、白い咽喉が甘く鳴った。
至近距離で見るの面差しは仄紅く染まって、それを視の隅に映しながら頤に、動脈にと、指先を滑らせていく。
「約束するよ、。君が僕のものに為るなら、こんな他愛無い遊びはもうしない。」
「 っ、冗談も大概にしなさいよ…っ!」
鋭い瞳で睨み上げられ、細い肘がリドルの身体を押しのけようと必死にもがく。
リドルにすれば、形ばかりの緩い抵抗に思わず笑みが揺蕩った。
本気で厭ならば大声の一つでも上げれば良いだろうに、暗がりに居るとて、女子生徒の叫び声が聞こえれば誰かしらは気付いてくれるだろう。
さて、どこまで言えば君は自分の本心に気付いてくれるんだか。
胸の中で鷹揚と反駁しつつ、反動でさらりと零れてきたひと房の髪を指先で掠め取る。
「じゃあ予言でもしてあげようか?君は僕に恋をする。僕が君に恋をしたのと同じように」
今まで見たことも無いような、鋭利な双眸、狙う獲物は一匹たりとも逃がさぬ様な強靭な意志を感じる眼差しに、怖じた。
冗談ではない、冗談で済まされるほど単純とは程遠い種類の視線。
まるで、最初から全てを憎まれているかのような、狂気にも似た甘美な視線。
これ以上、彼に関わっては為らない。気が付かないうちに視線で彼を追っている今のが、これ以上関われば、リドルが断言するように本当に。本当に恋に 、
自覚すれば、頬が血が昇り、心臓と理性が悲鳴をあげ、耳まで赤く染まった。咽喉が震えて、うまく声にならない。
「わ、私は絶対…」
「誓ってあげるよ、君は僕に、堕ちる。」
模範的とも言える優等生の微笑みで、リドルはに断言する。
普段見慣れているその表情は、上辺だけの誂えたもの。此れはまさに、咽喉笛に噛み付く瞬間を狙う獣の顔だ。
そうして、手にしたの髪を掬い取ると己の顔の方へ引き寄せた。
まるで唇にするように、柔らかくゆっくりと口付ける。その様が菫の視界に映っていることを確認しながら。
「其の日まで あと、何日かな」
愛しさを滲ませ、甘い囁きと余韻残して、リドルはを解放した。
ひらひらと小さく手を振って去る後姿に、一分もしないうちに女の人だかりが出来る。声を掛けて来る女一人一人に優しい微笑みを投げ、「今日は誰が僕の相手をしてくれるの?」等と聞いている声が聞こえた。
トム・マールヴォロ・リドル。
誰もが知りうるスリザリンの有名人。その彼が、私の事が好きなのか、とは面と向かって聞けなかった。
リドルの言葉は虚偽か真実か、今も色濃く残るリドルの馨りに理性がズタズタに引き裂かれ、混乱しきって頭がついていかない。
落ち着くのよ落ち着きなさいとは頭の中繰り返し、口を噤んで、そうして。
約束するよ、。君が僕のものに為るなら、こんな他愛無い遊びはもうしない。
熱に潤みかけていた菫眸が僅か瞠られ、思い出したように飲み込んだ鉄の味が蘇ってくる。
脳内につんざめく喧騒は、理性と本能が織り交ざった最悪の警報。早くあの男の許から離れなければ、無理矢理喰われると云う意と、早くあの男の許へ行かなければ辛抱強い男に取って喰われると云う意。
恐ろしい事だ、背筋が凍る。
「あんたなんか、絶対に好きに為らない。」
自分自身にそう断言したが、後に、大口を叩いたというヤツに陥るのはあと三ヵ月後のこと。
□ あとがき □
サイレン、色々と考えたんですが私の中でのサイレンはやっぱりこういうのですかね。
偶にはこう云うリドルとヒロインも良いものではないでしょうか。
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