誘蛾灯





初めて其れに気付いたのは、もう大分前だと記憶している。
魔法省に勤めてもう直十年が過ぎ様としていた時分の事で、その日も普段と相違無い量の仕事をこなし、終業の鐘の音が木霊すると共に自室を出た。
酷く疲れていたと言う訳でも無いが、格別気分が優れていた訳でもない。
階下へと繋がるエレベータを待つ際に、自室に重要書類を置き忘れていた事に気付きその踵を返した。
普段であれば、執事に任せて己は馬車に乗り込むのが常で有ると言うに、何故かその日ばかりは己で取りに行く事にした。




「 …ピアノ…か? 」




仕事をしている際や、魔法省に勤める面々が顔を揃える就業中には決して聞えなかった音が微かに鼓膜を震わせた。
聞えなかった、と言うよりも聞こえる筈が無かったと言う方が正しい。
此処は魔法省、しかも高官ばかりが軒を連ね一般市民どころか魔法省の内部の人間でさえもこの階へ安易に立ち入る事は許されては居ない。
その様な場所に、何故ピアノの音色等聞えるのだろうか。
カツカツと音を立てていた煩い足を止めれば、確かに微かだが儚いピアノの旋律が耳を掠める。
神経を集中する様に耳を欹てれば、魔法の施された古びた一つの扉の奥から零れ落ちている様で。
古板の扉奥の階段に足を掛ければ、自然と何かに導かれる様に一段一段降りて行った。




「 …此れは… 」



階段を降り切った先には、粗末な慰龍木がくべられただけの暖炉に小さなグランドピアノが一つ。
太陽の光さえ射し込む事は無く、暖炉の明かりと壁に玩具照明の様に取り付けられた古びた橙の灯かりだけ。
その中心に、独りの少女が居た。
東洋の者と判る絹糸の様に細い漆黒の髪を携えて、純血の血が混じっているのか薄い紫の瞳を大きく開け、少々身体に合わない大き目のドレスを肌蹴させながら唯其処に居た。
真っ白なグランドピアノとは似ても似つかぬ取って付けた様な飾りが施された椅子に腰を落し、ボロボロに擦り切れ色褪せた楽譜を眼前に置き、か細い指先で鍵盤を弾く。



周りに誰も居ない事を確認すると、私は後ろ手に扉を閉めて錠を落す。
カチリと僅かに鳴った其れに少女が気付いて、一瞬視線だけを此方に映すも、すぐさま大きな硝子玉の瞳は楽譜を追った。
一瞬しか捉えられなかった筈の少女の表情だと言うに、鮮明に私の脳裏に焼き付く事と為る。
人形の様に整った幼い顔立ちにキリリとした目鼻立ち、万人が見れば間違いなく”綺麗だ”と感嘆するであろうその美しい顔が、悲愴に満ち溢れていた。



一目で気付く
------少女は慰み者でしかないのだと。




「 此処、構わないか? 」




言えば少女が返事の変わりにビクリとその身体を震わせた。
細い肩口を小刻みに震わせて、振り向かずに少女は唯頭を小さく下げ其れに攣られる様にさらりと美しい髪が流れた。
少女の隣に無造作に置かれた椅子を引き、だらしなく床に付くローブも気にせぬまま其処に座った。
古びた慰龍木がギシリと軋み、その小さな音にさえ少女は脅えるのか桜色の唇を震わせる。
この少女が、誰のどの様な扱いを受けているか等とは一切興味が無かった。唯、少女の細い指から紡がれる音が欲しかった。




「 名は何と言う? 」


「 ……………… 」


「 口を利けぬのか?其れとも誰かに咎められるのか…
 言えぬならば其れで構わない。 」


「 …………… 」


「 楽譜を見なくとも有名な楽曲なら弾けるか? 【Cosi fan tutte】… 」



全てを言わぬ内、無言の侭少女は弾いていた旋律を変えた。
安物であろうピアノから紡がれる旋律は愕く程美しく、オペラを聴きなれていた私の肥えた心に異なる繊細な響きとなって届いた。
その音色の美しさに疲れ切った瞼を落せば、聞き慣れた筈の【Cosi fan tutte】の響きが新鮮なものに変化する。
異世界にでも飛び落ちた様な感覚に身体中が包まれ、憶えていない筈の母親の胎内を思い出させた。
何もかもが心地良く時間さえ止まってしまうかの様な、そんな感覚に神経が悦ぶ。




「 素晴らしい技量だ。賛美に値する。 」




少女が最後の鍵盤を弾き終えた刹那、無意識の侭乾いた両手を合わせて音を立てていた。
乾き切った埃臭い空気の中を凛ととした音が響き、言葉に無反応を示した侭の少女はまた別な曲を紡ぎ始める。
少女は唯、此処でピアノを弾く為だけに存在しているのだろうか。
ふと腕の時計に視線を落とせば、もう大分時間が経過している事を如実に示していた。
帰らねば為らぬ時間を少女に告げる為、無言で椅子から立ち上がれば瞬時に演奏が途切れた。
如何かしたのかと少女を見れば、薄紫の瞳が真っ直ぐに此方を見ている。
何かを訴えようとしているかの様に。




「 如何した? 」


「 …………私の名前は、


…素敵な名だ。 」




言葉が紡げないと思い込んでいた少女は、酷く小さな声で有るけれども己の名を口にした。
触れてしまえば毀れてしまうかの様に繊細な瞳を持つ其の名は、少女を客観的に現した様に美しい響きとなって空に漂う。
繰り返す事すら躊躇ってしまう程の刹那の間、言い返してやればは初めて表情を和らげた。
悲愴に満ちていたその顔が微笑に変われば、想像以上の美しさと可憐さを伴い、同時に年齢を髣髴とさせる幼さが見え隠れして。



更にと交流を持ちたい等と妙な気分に駆られて仕方ない私は、邪魔なローブを後ろに翻させると腕をに向け伸ばした。
頬を張られると思ったのか、其れとも淫らな行為を要求されると思ったのかは定かでは無いが、その瞬間確実には身を硬直させ笑顔を消し再び悲愴に包まれた。
眉を顰めてしまう様な事態、は俯きながら唯タダ何かに耐える様に身を震わせて。
本能的に、何故か傷つけたいと云う衝動より、護りたいと云う衝動が天秤の重さを認めた。





「 …私は Lusius Malfoyと言う。 」




椅子に座ったの前に跪く様に身を屈め、震える細い手首を恐がらせぬ様に壊れ物に触れるかの様な手付きで触れた。
ゆっくりと其れを下に下ろし、一瞬で冷え切った甲に乾いた唇を押し付けた。
の中は恐怖心に覆い尽くされているのか、瞳には透明な雫さえ見え。
其れを指先で拭ってやると、固く閉じられた瞼から再び薄紫の瞳が覗いた。
愕いた様な表情が、再び柔らかく本来在るべきの笑みへと変わって云った。





これが、私ととの出会いだった。
が、絶海の孤島にある魔法界の刑務所アズカバンで生まれた少女であり、此処に幽閉されていると知った事は魔法省の重大秘密だと言う。
が誰の、どの様な慰み者になっているか迄は判らぬ侭。
けれども、に逢うと云う事は魔法省の立ち入っては為らない禁忌に触れていると言っても過言ではないだろう。
だがしかし、に出会った日から私は…ピアノの音色に惑わされる様に古板の扉奥の階段を降りてしまっている。
其れはまるで、灼かれると判っていると言うに青白色の灯かりに惑わされて誘蛾灯に激突する小さな虫の様。
熱心な光を帯びた青白い電灯に向かって虫が青い光の中へとその身を投げ込み、破裂音と共に地に落ちる様に。
あの日見た、の無邪気とも思われる笑顔とはかけ離れた表情は何処か空ろですらあるようで、盗み見た表情からは何の感情も伺えない。
其れは虫を誘いたくて誘っている訳ではなく、唯其処に居る事しか出来ない誘蛾灯を生き映したかの如く。




、今日は【Sonate fur Klavier No.8 Pathetique Op.13 2mov】を頼みたい 」




ふわりとが微笑んだ。
身を焦がすだけだと判っていようとも、私はもう此処を離れる事は出来ない。
の紡ぐ旋律もさることながら、紡がれる旋律よりも遥かに美しく繊細なをこの時既に愛していたのだから。
故に私は、誰に背く事が有ろうともが此処に居続けるならば、私も此処に通い続けるのだろう。
所詮は、と云う名の誘蛾灯に灼かれる為に存在する小さな虫でしかないのだから。














□ あとがき □

誘蛾灯…。
最後だけでこじ付け、ごめんなさい(笑)
しかも、ルシウスを虫にしてしまって……FANの皆様に怒られても可笑しくないです(汗)
偶には恋人でも一歩手前でもなく、唯ヒロインに溺れて行くルシウスを書きたかったんです。
ヒロインの出生云々、誰の慰みモノか云々、ご自由にご想像下さいませ。





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