遠浅






---------- 毀れて喪い戻らぬ想い出に、切ないと名を付ける程哀しみは深かっただろうか。





唯の一度だけ此方を真直ぐに観た紅蓮の瞳に、涙が零れ落ちそうな気がして視線を外した。
眼を閉じれば耳元で囁いているように木霊する遠浅の潮騒の音色、其れだけがこの場所の全てを満たして居る。
柔らかな蒼い光が水面を満たし、照りつける橙の太陽の陽を拡散させる様に拒絶して、唯蒼い侭で其処に。
寄せては返す波の音が耳の底に響く。
切り立った岩山の断崖、見下ろした先はコバルトブルーに染まり切った遠浅の海。
星砂に近しい綺麗な砂が薄らと垣間見える浅い海底、其れが果てしなく続いている様に水平線まで延び切って。
蒼く透明な光を放つ水面の果てで、燭台の灯りの様に明るく、淡い光りに充ち満ちていた。
硝子の破片が砂漠色の海面に突き刺さった様に映る存在、其れを珊瑚礁だと気付いた瞬間に脳裏に描かれたのは紅蓮の瞳。
柔らかい微笑みを投げていると云うに、何処と無く悲し気な翳りを宿した瞳から視線を剥せなくなってどれ位経っただろうか。
瞳を瞑れば今でも映像を観ている様に鮮明に思い出す事が出切る程鮮やかに発色した想い出、色褪せる事の出来ない情景が完全に過去の去来物と為るのは何時の 日か。





「 君は今、何処で何をしているのかな。 」





遠くに聞こえる潮騒、寄せては返す遠浅が生み出す波から零れ落ちた水滴が空に舞い、爪先が温もった潮に濡れる。
太陽に背を向け燦然と光りを通す空気の靄の中、無邪気の思慕を表現しながら透明な水を掬っては空に投げていた。
瞼を閉じれば焼き付けられたように浮かび上がる其の笑顔の奥に翳る遠浅の海、僅かに見える珊瑚の紅に良く似た色で微笑む君を、
見る事が、…唯恐かった。



蒼い海の中で翳る存在を見る度に…、君を想い出し、如何し様も無い恋慕に駆られる。
何も無い蒼い海を見る其の度に、海に揺らめく紅珊瑚を視界に入れる度に、喪われし筈の君が其処に居る。
僕の眼前から姿を消し去ったあの日、晴れ渡った蒼い空と澄み切った碧い海に抱すくめられるように身を投じた君に成す手段無く。
君が僕の前から姿を消した日から、空間だけ切断し周囲から隔絶した様に時間がピタリと音を立てて留まった。
変わらない情景、進まない時間、聞こえてくる潮騒の音だけを聴覚が認識すればあの日の侭何も変化を遂げては居ないのだと誤認する。
君がこの世界から居なくなった、君が僕の記憶と接点を持たなければ、君の存在を偽りだと視えては居ない存在だと思うことも出来るのに。


冷たい水に溶け入る様に愛された君は、あの瞬間だけ僕の眼前から姿を隠していただけにしか思えず、僕は蒼い海から眼をを逸らす事が出来ない。
何時もの様にあの可愛らしい微笑みで、Riddleと呼んでくれそうな気がして止まないから。





「 リドル、見て見て。 何処かからか此処に流れ着いたみたいだよ? 」





きゃあきゃあとまるで子供の様に騒ぐを隣において、僕は唯空を見上げていた。
嫌悪する僕の瞳とは異なる透き通った蒼が酷く綺麗で、出来れば同じ様にこの瞳も蒼に染まらないだろうかと其ればかりを考えていた。
小さな手を引いて何時ものこの場所にと来て、未だ5分と経っては居ない。
酷く嬉しそうに言葉を投げたに視線を遣れば、軒先に掛けられて居そうな古木の看板が細い腕に抱えられ、柔らかい風にかたかたと揺れていた。
板の色も風体も長い間潮に蝕まれて変色し黒ずんでしまっている、有り触れた地味で小さな看板板。
何がそんなに嬉しいものなのか。
理解出来ない侭苦汁に似た溜息を零せば、そんな些細な事になど挫ける事を知らない果敢な少女は僕の横に静かに腰を落した。





「 此処みて、此処! 何か書いてある…何かのメッセージかな? 」

「 …はしゃいで云う言葉じゃない。 déraciné…郷里を失った人間と云う意味だよ。 」





大方、何処かの国で用いられる愛を告げる言葉か何かと勘違いしたのであろう。
déracinéはフランス語。イギリス英語ですら理解する事に困難を憶えているが読める筈も無い国の言葉。
想像を超えた意味をさらりと云われ拍子抜けしたのか、古びた看板板を両の手で抱え直し煩い程の言葉を紡ぐ唇をキツク噛み締めている。
感情表現に酷く長けたは、共に居る時でさえ良く泣いて良く怒って良く笑って、そして微笑った。
誰よりも海が好きで、太陽の光りが水面に反射しては浅瀬の珊瑚を照らし出して浮かび上がる情景を、まるで光の海の様だと感嘆の溜息を漏らして。
今まで見てきた様々な表情と何等変わらない筈だと云うに、其れでもの瞳から透明な雫が音も無く零れ落ちる様を見た瞬間には息を呑んだ。





「 帰る場所が無いって、辛い事だよね。 」

「 そうかな。 僕は独りの方が気が楽だと思うけど? 」

「 待っていてくれる誰かが居てくれるって、凄いことだよ?
 其の凄さと大切さに気付いた時が、何かを失ってからじゃないといいね、リドル。 」





あの日の君の言葉が脳内でリフレインする。
今思えば、君と共に在った時間だけは最初から等身大の自分で居られることが出来た。
何も偽ることも無く神経を使うことも無い。其の理由が唯同じ紅蓮の瞳を持つからだ、そんな理由に為らない理由で己を言い包めてあの日まで生きていた。
傍に居る事が当たり前に為って、知らずの内に胸中に芽生えた想いが愛情だ等、例え其れが真実で在っても受け入れるだけの……が無かった。
恋人らしい事をした憶えも無ければ、愛の言葉を吐いた験しも無かった。
唯傍に居て、が時折思い出した様に微笑みながら告げてくる情愛の言葉を心地良く聞き入れる其の瞬間、其れだけが幸せだったのだと今思える。


と共に在れば嘘偽りとは限り無く無縁で、傷つけ合うこと無ければ、感情を偽る事も無かった。
言葉や態度で表現しないだけで、優しさや寂しさ、辛さや痛みは各々受け入れて来た。
…そのつもりで居た。
だからこそ、あれほどまでに感情表現の豊かなが、表現しない想像を絶する悲しみを胸中で抱いて居たこと等知る由も無かった。
あんなにも近しかった存在が、瞬く間に手の中から擦り抜けて消えた。
気付いた時には時既に遅い。
指の隙間から砂が零れ落ちる様に一瞬で居なくなった君が、護って遣りたいと心から思った瞬間、其れは敵わぬ願いに為る。





、君が帰る場所は見付かった? …君の言う通りだったね。 僕は結局… 」





---------- 君を失って初めて、帰る場所が在る事に気付いたんだから。





視線の先、海に身を沈める様に静かに楔で固定されたあの看板板が在る。
が蒼い海に消えた日、半ば自暴自棄気味に投げ捨てた看板板を掬い上げて、十字架か何かの代わりとばかり無理矢理砂浜に突き刺した。
身の丈の半分程度まで波に打たれながらも不思議と崩れ落ちることの無い存在に、déracinéの文字。
この場所に還って来て欲しいとの願望の現われでも有るかの様な稚拙行為に自分で自分を嘲った。
流れ着いただけのこの看板板、帰るべき場所は在らずとも、此処に在って道標に為らないだろうかと。
こんなもの、在っても無くてもはもう戻っては来ないと云うに。

水の中、本人の気持ちは如何であれ、久方振りに頬を伝った涙と共に溶け落ちていく想いが有った。
伝えるべき対象で有る筈の君はもう、居ない。
表向きだけではない言葉を本意で伝えられるべき時に、君が傍に居ないなら意味が無い。
遠浅の海の先、紅い珊瑚を見ながら哀しそうに微笑った最後の表情が胸に焼き付いて消えない。





---------- 本当は嫌いだったんだね。 この紅も、リドルと同じ瞳をした私も。





唯の一度だけ此方を真直ぐに観た紅蓮の瞳に、涙が零れ落ちそうな気がして視線を外した。
其の瞬間に君が居なくなると知っていれば、あの時の僕は間違い無くこの腕を伸ばして君の細い身体を抱き締めて居ただろうに。
後悔してももう、遅い。


毀れて喪い戻らぬ想い出、悲嘆に悲憤にくれるほど君への愛情は深かったの だろうか。
愛を告げる言葉は最後まで言えずに、伝えるべき想いは最初から言えない侭に終った。
次の瞬間、遠浅の海が慟哭く音が鼓膜を霞めて海鳴りに変わった。

カタカタと細く鳴る看板板を見ながら、二度とは戻らない愛しい人を想ってキツク瞼を閉じた。








□ あとがき □

…遠浅って云うよりかは寧ろ【デラシネ】ってお題の方が有っている気がして為らないのですが、お題は遠浅でお願いします(笑)
リドルはどうしてもこう云う感じの悲恋が似合って仕方ない。
そんなリドルしか書けなくなった私は既に末期なんだろうなぁ〜其れでも切ない系HappyEnd夢とか大好きなんで、その内リベンジしたいとは思っており ます。


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