| 眼前で人が狂声を上げながら地に伏して行く様を見詰めているのに音が遮断されるようなその感覚は、雪原に立った時に最も似ていた。 生きとし生けるもの全てが眠る場所、命をもつ何もかもが凍る場所、終わりというものを視覚で思い知る事が出来る唯一の場所。 生きて、居るのだと唯一感じられる場所。 視界を埋め尽くす穢れた白一色の中にぽつんと一人残されてしまったあの感覚。 だが白は、端のない世界に溶けるように霞んで消えゆき、不意に見上げた天は緩やかに赫が降注いで。 失望と恐怖と焦燥と、色々な感情に振り回されながら、眼前に広がる狂気の世界は、自分が起こしている罪の成れの果てだろうか。 あぁ、それでも今自分は、生きている。人の死の上に立って、今日もまた、独りきりで。 ざ、と嫌な音がした。 身体から力が抜け、地面に膝を突けば確かな痛みが走り、崩れ落ちるように視界一面を覆いつくす色に身を沈める。 ―――――――あなたが居ない世界で唯独り、貴方に逢えるのをずっとずっと、待っていた。 DESPERADO ![]() 世界が焼け爛れるような濃い橙色の夕陽の中、小さな砂塵が銀河を縒り集めたように煌く。 何の意味も無い、鬱陶しいだけの埃の筈なのに。其れはまるで、季節外れの雪の様に降り積もる。 粉雪の様な砂塵雪の下、蹲る少女の横顔は、何時か見た絵の様に。ひっそりと総ての時間と響を止め、確かに其処に在った。 「…何度目だと思っている」 脇から聞こえた聞きなれた声に朧な意識が覚醒し、瞳を開けた瞬間に違和感を覚えた。 投げ出された下肢、擦り切れたローブは微風に靡いて音を立て、「綺麗だね」と褒められた自慢の髪は泥に塗れて地面に転がる。 「起きられるかね」 唯一意識せずとも開示された聴覚を介して脳に伝わる声色は、低く、甘く、重い。 普段よりは幾分も声音は抑えられているのに掠れることなく響きが損なわれていない音は、夜に摩り替わろうとしている浅黒い空に相応しく、融け馴染む柔らかな低音だった。 (あぁ、また遣ってしまった) 冷たい冬の風に晒された身体にふわりと布が落ちてきて、慣れ親しんだ薬草の香りが鼻腔を擽る。そうして途端に現実を知った。 柔く静謐な水面に瞬いた波紋のように彼の声は彼女の内に骨まで染みこむ様に浸透していき、深く、水底に沈んだ記憶の欠片を掬い上げる。 また、遣ってしまったのだ、と微かに痛覚を訴える左手を瞼の上に持っていって、先程感じた違和感のその理由を知る。 彼女は、静かに、泣いていた。 「もう一度聞くがね、起きられるか、」 周囲をゆっくりと流し見、漆黒の闇に捕われる様に埋もれていく荒れた世界の中に、未だおぞましい赤の世界を見出しスネイプは告げた。 彼の周りは一面の、妖しいといえるほど鮮やかに紅く黒く光る、狂気の世界だった。 幾許か前まで、自分も同じように身を埋めていた世界に、紅く汚れた綺麗な横顔、赤く汚れた漆黒の髪、あかくあかく染まった彼女は居た。 「あ……ごめんなさい、感覚が無いみたいです」 「人に死に場所を提供してきたようなお前が、死に場所を探して居るとでも言うのか。」 揶揄するような呆れたスネイプの声。何時もの魔法薬学講義で聞くような声色に、痛切に思う。 そんな事、本当はどうだっていい癖に。教師として、大人としての義務だから?道を外れた生徒を引き戻す役目は。 動かない頭の片隅でそんな事を思いながら徐々に戻って来た痛覚に眉根を寄せれば、同じ意識の片隅で、気が付いた。 血に濡れた身体を、抱き上げようとしてくる硬い腕。 埃一つですらもローブに落す事を嫌うスネイプが穢れる、と反射的に身を捩ろうとも神経中枢など既に麻痺した様に動かせず、結果好きに扱われる躯。 ぱしゃりと水面の音色が響き、あっという間に、目線は自分の方が高いくらいの位置まで持ち上げられる。 汚れた身体が纏う赤を気にする事無くを抱えたスネイプは、僅かに見下ろす形でその表情を伺うように、穏やかさを湛えて薄紫色の双眸を見返してくる。 本当に此れで何度目だろう。 其の度戸惑いと痛烈な痛惜に襲われ、そうしていつも迷うのは、何処に手を置いていいかという事だった。 彼の肩に当然のように、罪と血と罰に塗れた罪人の手を置くのは躊躇われる。 だが歩を進めた振動で肩の傷口が開いたか、引き攣るような痛みに、自然としがみ付く様に首に腕を回した。 生臭い人の油が混じった、錆びた鉄の匂いがするだろうに、スネイプは小言一つ言わずに颯爽とローブを翻す。 「判っているとは思うが、暫らくは外出禁止だ。マダムに露見したくなければ、大人しく我輩の部屋で時間の無い中調合してやった増血剤と止血剤を飲むことだな」 「………苦い」 「文句を垂れるな、身体に傷を遺したいのか。」 「………身体に傷が残る位、別に良いですよ。時が経てば癒えるんですから。」 風に靡き目の前に垂れてくるスネイプの黒髪を見て、沸々と思う。 彼の髪は自分と同じ夜の帳のような漆黒色だけれど、闇の色だけれど、全てを拒絶し塗り替えるような自分の黒とは違う。 相連なる瞳の色もそうだ。出会ったときに一番初めに目にした黒双眸は、自分と同じ色で、直視出来ずに逸らした。 同じものを見ているような気がしたからだ。だが、今は真っ直ぐ見られる、怯えたりしない。もう。 「心に残った傷とて、時が経てば癒える」 乾いた誰かの血が張り付く頬を撫でる大きな掌、彼は人を殺した手だと蔑む。 落ちぬ様に傷に障らぬ様に廻してくれる左腕、彼は罪に塗れ罰を背負う咎だと嘲う。 けれど、おなじものを持つ自分と異なるのは、彼はそれを乗り越えたものだから。私とは違う、違うんだ。 また一つ罪を重ねた自分の頬を撫でてくれる時、スネイプ教授の顔が一番優しいことを知っている。 其れは私を通して、嘗ての自分の姿を垣間見て嘆いているような、そんな表情。 しばし沈黙の帳が降りる。 次に紡ぐべき台詞が互いに見つからない。クレヨンで塗りたくった様な紅い世界から徐々に色味を増した世界へと足を進めるスネイプに、新たに声を降らせたのはの方だった。 「ねぇ、スネイプ教授。私、思うんです。いつか私が…あの子をこの手にかけてしまうような気がして。」 白磁に映える相貌が微妙に揺らぎ、しかし瞬く間に再び沈静する。 別にあの子、ハリー・ポッターと云う子どもに恨みがある訳ではない。 今年入学してきたばかりのその子は、あらゆる意味で魔法界において名を知らしめていて、唯一が仕えるヴォルデモート卿最大の敵だ。 今自分を抱いている彼が、護ろうとする存在。血と罪に塗れて尚こうして自分を見つけ出してくれる、唯一の彼が、護る存在。 感覚を狂わされる、いつまでもこんな時間が許される訳がないのに。 自分があの子に杖を向けた瞬間、一斉に彼を護る人たちは私に杖を向けることだろう。判っている、だのに、また気が付けば自分はこの紅い世界に居るのだろう。 そうして、いつか自分があの子どもと対峙する時は、彼と対峙する羽目に為るのだろう。 間違い無く、彼は私に杖先を向ける。 唯一、この紅い狂気の世界まで迎えに来てくれる存在が、唯一、同情でも慈悲でも義務感でも正義感でも贖罪からでも、理由なんてなんだって良い。迎えに来てくれる、存在が。 「もしそのときが来たら、」 あぁでも、誰か見知らぬ人に殺される位ならば、いっそ。 何処までもどこまでも、赤く染まっても尚、最後に貴方の色で染めてくれるなら。 酸素不足で思考があやふやになってきているようだ。 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、数秒間己の中の妙な意地と葛藤し、逡巡した挙げ句、やはり水底から掬い上げられた小さな望みを言葉の端に乗せた。 「スネイプ教授、貴方が私を眠らせてくれますか?」 自分で言ったことだが、言った後に苦笑が漏れた。本当、馬鹿馬鹿しい。 こんな事、頼む義理でも無ければ彼が叶える義務さえ無いのだ。だのに、 、と低い声が、自分の名を呼ぶ。甘くも酷くも響き、耳に届くばかり。スネイプは諦めるような吐息と共に、切れ長の目をゆっくりと伏せた。 「我輩はあの日、アルバス・ダンブルドアに救われた。だがデス・イーターの世界から這い上がったのは、自分の意思だ。例え他者から何を言われようとも、自分で変わろうという意思が無い事には何も始まらんのだよ。」 そうして眼前を見据えていた両眼を眇め、上からの顔を覗き込んでやる。 アメジストよりもも、もっと鮮やかで柔らかい色を示す、純度高い菫の両眼。何年この眸を見てきた事だろう。彼女がホグワーツに入学してきて実に7年、もう、7年もこの瞳を見続けている。そして彼は、後何年見てゆく事になるのだろう。 「デス・イーターとして生きてゆくことでしか、生きている意味を見出せないのならば、其の侭で在れば良い。誰かの命を殺ぐ位ならば我輩の命を差し出す、と安っぽい偽善者振りたい気もするが、生憎と未だ遣るべく事は無数にあるのでね。易々と死ぬわけにもいかぬのだよ。 …其れに、いつかお前が本当に気が付いたとき、傍に誰も居なかったら……この穢れた世界で独り、どうやって生きていくのかね。」 静かなその問いに対し、は再び朧に為り掛けた思考回路を稼動させては何と応えようかとばかり、惑うように、口唇を薄く開きかけた侭。 スネイプはそこから零れるだろう声を待つ。ただ只管静かに、緩やかに、焦らせる事なく。 は瞬きを何度か繰り返してきて、スネイプから視線を逸らした。 「…如何にか生きていきますよ、今までも如何にか生きて来たんですから」 「そうか、為らば我輩は……君が、如何にか生きていけるように為るのを見届けるまでは死ねんな」 「……其れは如何云う意味―――――、」 「如何にか生きる、ということは、死ぬ気は無いという事なのだろう?為らば生きたまえ、誰を、何を犠牲にしても。 人が強欲なのは仕方が無い、細胞に深く刻みこまれた過去からの有り難くない遺伝子だ。 だから君は自身の強欲に忠実に生きれば良い、皆、そうやって生きているのだからな。 あぁそういえばさっき言っていた事だが、心の傷や過去の出来事は所詮は心に残らない。苦痛でしかない過去の出来事も、刻みこまれた記憶も、血を流した心の傷でさえも、やがては風化する。 そうやって、人はひととして生きてゆくのだよ」 判るかね、と問われ、は緩く首を左右に振った。 そうして静かに俯いたまま顔を上げないは、僅かに残っていた力の全てを開放したかのように全身でスネイプに寄り掛かって来た。血の気の引いた彼女の顔は既に限界が近い。 傷に障らないよう注意して、抱え直してやる。普段よりも重たく感じる体は、意識が殆ど無い状態である事を示していた。 既に聞こえてはいない事を知りながら、の耳元。普段は決して言う事の無い、本当の希みを囁いてやる。 「だが其れでも、死にたくなったら……共に地獄へ堕ちようか。資格だけなら我輩も十二分に持っているからな」 言った矢先、下方を見れば案の定、は痛烈な痛みからか既に意識を飛ばしていた。 こうすることでしか、「生きて」居ることを確認する手段が無いのだと、いつか彼女は悲しそうに言った。 初めて彼女が人を手にかけた場面に遭遇した時は衝動的に頬を張り飛ばした。加減もせず、生徒だと意識もせずに。 「そんな事をしなくとも生きている意味など見出せるだろう」と詰め寄ったスネイプに彼女は嘲笑しながら「もう戻れない」と、肩布を破り、証を見せる。愕然としたあの想いを、生涯忘れることは無いだろう。 もう二度と、自分は味わうことは無いであろうと思っていた世界に、彼女は独りで佇んでいた。 見て見ぬ振りが出来ず、中途半端に手を差し出したのは、教師と言う立場からくる偽善の心か。其れとも過去の自分と同じ道を歩もうとしていることへの同情からか。其れとも――――――。 沸々と考えながら見上げれば、深遠の月が中天を占め、雲間から覗いていた。夜の帳が完全に降り切って、漸く彼らの時間が来る。 彼の望みは、夜の月に願いをかけ叶うような、そんな他愛無いものではない。 落ちる覚悟はとうにこの胸に在る。既に一度堕ちた身だ、自分の分とまとめて、罪も罰も全て引き受ける。 だからせめて何を犠牲にしても生きろ、というのは、酷な事だろうか。胸郭の奥深くに潜む心の臓が痛んで仕方無い。 「…、君は生きたまえ、生きて………」 嘗て、と同じような世界に居た自分に、命を懸けるものなど存在しなかった。 死の淵に足を踏み入れかけてる状態にあっても、思い出し心の支えとなるような愛しい人間の顔が脳裏に沸かず。 誰にも心を与えず、誰をも愛さず、残さず、独り孤独に生きてきた報いだった。 誰かの為に命を差し出すことなど容易いことだった。主を護るために、誰かを殺すことでさえ、何の躊躇いは無かった。 だが、アルバス・ダンブルドアに出逢い、気が付いた。 此の侭一生誰を愛することも無く、誰からも愛されること無く、来るもの全てを排除しながらいつかは死んでいくのだろうか。 単純に、それを悔いた。 自分を支える理由は様々だったろう。だがしかし、自分を変えた大きな理由はそれだった筈。 I did not love a person and seem to have been sorry. You better let somebody love you,You better let somebody love you,Before it's too late... I seem to have loved you. 「君は生きて、人を愛し、愛されるのだ。人間には誰しもが平等に、その権利を持っている」 デス・イーターを見付け出し、年端も行かぬ自分の生徒だったと知った瞬間に魔法省に突き出すどころか逆に手を差延べたのは、同情でも、親切でもなかった。嘗て自分が居ただろうあのおぞましい世界の欠片を思い出させたからこそ。 そうしてあの時自分があの世界から抜け出したのは、こうして君に出逢うためだったのだと言えば、君は笑うだろうか。 罪と罰と血に塗れた自分はきっと地獄に行くだろう。 天国とか地獄とか極楽浄土とか転生とか死後の世界とか、そういう不確かなものを信じてる訳ではなくて、やはり自分は赦される筈もなかった。罪無きマグルと其れに加担する者たちを一体何人殺めてきただろう。其れを思えば、彼らの辛苦を思えば、 多分死んだ所で、のうのうと安らかなまま在れはしないだろう。 勝手に手を差し伸べた我輩を、憎むか、愛するか、それは君が決めていい。 だが、いつか自分が誰かを愛し誰かに愛されるのならば、隣に立つのは君で在れば良いと血塗れた子どもを抱きながら確かに思う。 だからこうして毎回懲りもせずに迎えになど、行ったりするのだろう。 耐えるように、諦めるように、認めるように、愛しむように、スネイプは憂いを滲ませた黒の両眼をきつく閉じた。 [ Back ] (C) 2002-6 The fanfictions are written by Saika Kijyo. update 2006/12/10 Present for 花耶 sama |