地面を這う様なゆったりとした闇が、その部屋には満ちていた。
音を立てる存在は小さく震える時計の秒針と、微か規則正しく繰り返される羽ペンが羊皮紙を掠める音。
静寂の合間を縫うような静謐な時間は突如、普段はたつこともない乱雑な音を以って開かれた魔法薬学研究室の扉が立てた音によって破られる。
(……またか。)
バタンと鳴る擬音に伴い、壁を伝わる振動に感化されるように数本のホルマリン漬けが揺らいで、カタカタと音を成す。
「一体何を考えているのよ、魔法省のお偉い様方は、暇潰しも大概にして欲しいわよ!!」
漆黒の外套を翻し、頭上に積もった雪を払うこともせず、両腕に抱えた膨大な量の羊皮紙を机の上に乱雑に放る。そうしてソファーに倒れ込む様に座ると、緩慢な所作で、腰まで届く長い絹髪を戒めていた薄い水色の結い紐を解き放つ。
…天津さえ、外套の下に着込んだスーツのジャケットを邪魔だと床へと捨て去り、シャツのボタンを第二まで外し、パンツが皺になるのもお構いなし、と横臥せた。
其のさまに、私は毎度の事だと呆れた様な息を吐き、羽ペンを休ませる事無く疑問を投げる。
「……また厭味妬みの賞賛を貰ってきたのか?」
「ご名答。表面面はていの良い言葉を言いながら面倒毎回してくる癖に、仕事が完了すると決まって言い出すのよ。」
「為らば、何時ものようにかわせば良いではないか」
「交わそうとしたら余計に面倒な事態になったのよ」
未だ憤慨治まり付かぬか、彼女…・は宝玉の様な見事な薄紫の瞳を、射殺しそうな程にキツク眇める。
乱雑に投げられた資料は本来、どれも「持出厳禁・重要書類」に分類されるべくなのだろう。
所々に暗号魔法の残滓が見て取れた。
だがの手に掛かればこんな程度の暗号魔法は、ホグワーツ生が最初に覚える「箒呼び寄せ魔法」よりも造作無い。彼女の職業は密偵だ。勿論、私が「不死鳥の騎士団」に所属しダンブルドアの密偵として活動していると云ったレベルの密偵ではない。
彼女はヴォルデモート卿どころか、魔法省直属の密偵、それも年を若くした指揮官だ。
実力は名声共に魔法省高官お墨付き。冷静沈着、怜悧透徹、目的遂行の為なら手段を選ばず、彼女が闖入出来ぬ場所と奪取出来ぬ書類は世界に存在しないと高らかに謳われる。
事実、彼女は魔法界に二人と居ない密偵だ。先日は魔法省の仇となる、ヴォルデモート卿との関わりが記された密書をアズカバンから持ち出し滅した事実でさえ、世間には知られて居ない。
完璧な仕事をこなす彼女は、勿論の事内外・同業者異業者問わずに見方も多いが倍以上の敵が居る。
今回の魔法省召集も大方、先日の功績への労いと賞賛、そしてを嫉視する者からの賛美を裏返した皮肉だろう。
「如何した、醜聞なら聞き流せるだろう?」
ちらりと目線をあげて横顔を盗み見れば、相変わらず端麗な貌に不機嫌を上塗りしている。
如何やら今日は本当に癪に障る出来事にあったらしい。次々と羊皮紙を捲って数字を書き記しながら問えば、
「………今日偶々、ルシウスが評価会議に居たのよ。」
至極不機嫌そうに歪めた薄紫の瞳が、天井を睨んだ。
「ルシウス・マルフォイ?」
「そう、彼が。本当に偶々居たのよ、評価会議に。”久しぶりだな、”そう彼が言った瞬間に、」
――――――そうか、君は彼の愛人か、だから其の年齢でこの立場を護れている訳だ。
嫌味も皮肉も聞き慣れている。今更構う程の事でもない、人の弱みを見出し付け入る事に殊更長けているのだろう、利権に固執するしかない老人達の言葉は、が予想した通りのものだった。
砕けた口調で適当に挨拶を交わしながら、その皮肉を逆手に取って遣ろうと画策したは、眼の前に揺らいだ銀糸に眼を奪われ言葉を欠いた。
其の一瞬で。その次に吐かれた一つの科白で。
「彼女は私の愛人が出来るほど安くは無い。ものの価値を見る眼が相当無いと見える」
倣岸なまでに言い放ったルシウスの言葉に、それをどう図ればいいのか、は頑なな眼差しを向け言葉に詰った。庇って護って貰う義理も無ければ必要も無い筈だのに、反論は許さないと言わんばかりの強い響きと卑怯な物言いに絶句した老人達は足早に会議室を去っていった。
「……一体何を考えているのよ、ルシウスは。自分の立場が危うくなるとかそう云う焦燥感は無いのかしら」
魔法省高官にとって、醜聞は命取りだ。直ぐに足元を巣食われる。だからこそ、予てよりの同胞でもあるルシウスと出来るだけ関わりを持たずに来たと言うのに。
唯でさえ、女の人口が極端に薄い魔法省内を歩くだけでも相当異例な事だ。付け加えて、は魔法界では知らぬ人間が居ないほど有名な密偵。
欲した機密文書のためなら狸とでも平気で一夜を共にする、とまで噂された其の密偵を護った魔法省高官、此れ以上のゴシップネタは無いだろう。
だのに、ルシウスは老人達が消えて行った扉を見据え、くつくつと愉しげな笑み声さえ漏らしたのだ。
双蒼を撓めたルシウスは悪戯めいた笑みをうっそりと浮かばせ、見上げるに向かい「…では、またな。」と軽く嘯き扉を開く。銀髪がぐらりと傾ぎ、視界を焼いた。
「………休憩しようと思っていたところだが、紅茶でも飲むかね。」
「本当?久々にセブルスの紅茶が飲めるなんて思ってなかったから、急激に苛立ちが飛んで行ったかも」
「そうか。種類は何が良い?」
「何でも。セブルスの紅茶が外れたことなんて一回も無いし」
「為らば丁度珍しい種類のアッサムが入ったところだ。」
スネイプの掌がぱたん、と木製の扉を閉めた。
その僅かに凪いだ空気にさえ、手遠にある自室の奥からふわりと室内に不躾に闖入してきたの芳香が揺れ届く。
茶筒を空け茶葉を掴みながら、スネイプは再び溜息を吐いた。
コポコポと音を立てて注がれる湯を見詰め、数年前にも似たような事があったのを思い出した。あれはホグワーツ正門前だった記憶がある。
如何しての肩入れをする、と詰め寄ったスネイプにルシウスが言ったのだ。
面と向かっていない今だったら答える事が出来る。
の、先刻の、その問いに。
「……あの男が、お前を好きだからだろう」
事もなげにそう投げてきたスネイプの言葉に、は紫の双眸を見開く。それはあまりに予想もしていなかった答え。
問い返そうと思い、口唇を開けば掠れた声しか漏れない。眼を見開いたまま、呆然と扉を見遣るしかない。
だが刹那、可笑しそうに紫眸が弧を描いた。
薄い蒼のストライプシャツの袖から覗く華奢な腕が持ち上がり、指先がしなやかに黒髪を結わえるために持ち上げる。
其のタイミングで、ティーカップを携えたスネイプが、扉を開けた。
「私を棄てた癖に、か?」
の顔を覗き込めば、毀れ落ちそうな薄紫の両眼が晒される。耐え抜くような、その表情。
スネイプ自身、愚かな事を言っているというのは、判りすぎるくらいに判っていた。
「棄てた…訳では無いだろう、お前を護るためにあの男はお前の許から去っただけだ」
「馬鹿馬鹿しい、離れる事で女を護れると本気で思っているのか、あの男は」
「………唯傍に居るだけでお前が本気で幸せに為れる訳でも無かろう」
細い首にゆっくりと手を回しても、制止の言葉はない侭、湯気を上げているカップは静かにテーブルへ置く。
奪う為ではない、口付けを、誓いを顕わにするように、浅く触れる。
伝わってくる潤いた柔らかい口唇の感触、眼と揃いの色をした髪にも、口付けを落とした。
虚を突かれるように、素直に驚きを溢れさせた薄紫は、寸拍置いて目の前の相貌へと注がれる。
「驚いた、セブルスがそんな科白吐くなんて」
返す言葉に感嘆が滲んだ。
だが温かな掌が緩く、夜色の後頭部を滑ったのを切欠に、緩く香った薬草の香りはの許から離れてゆく。
其れを引き止めるよう、
「私は貴方以外とは寝ないわよ、今のところは」
掠めるような二度目の口吻けは、ほんの一瞬。
眼瞼を閉ざした刹那、小さく吸われた口唇はもう離れていて、双眸を薄く開けば先刻と変わらぬの顔があった。
「折角の紅茶が冷めるわね。続きは後にしましょう?―――セブルス」
名を呼ばい、請うてくる声色は滑らかなクーベルチュールの如く鼓膜を浸し、透かしていく。
笑んだ薄紫の瞳に、ぐらりと眩暈がしそうだった。
アルコールなど入っても居ないのに馬鹿馬鹿しい、と紅茶を飲めば、仄かに温い液体が咽喉奥を通過する。
こんなことならばホットではなくアイスにすべきだった、と真面目にそう思ったスネイプの横で、は散ばった重要書類を流し見ていた。
「――――もう冷めてる」
が手にしていた書類が乾いた音を立てて床に落ちた。
眼瞼を閉ざしてやるより先に、両の掌をの耳下に添える。
僅かにシャツに染み込んだルシウスの花香は、スネイプの香へと緩やかに塗り替えられた。
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