「―――――っ!」
短く聞こえた悲鳴。そうして聞こえた鈍い陶器音。
学期末試験真っ最中の談話室は普段とは異なり、進級を賭けた試験対策に追われる生徒を寄付けぬ雰囲気を醸し出しているかのように静謐な空気が流れていた
為、退屈凌ぎに手元の活字を追っていたリドルの鼓膜が其れを捕える。
大概の生徒は必死で図書館で羊皮紙に文字を書連ねているだろう土曜の昼下がり、月曜日の試験がそんなに楽勝なのだろうか、と活字から眼を引き剥がし前方を
見れば、5つ学年が下の生徒……名だけは既知しているが盛大に暖炉の脇に足をぶつけ前方に転んだ様が映り込んで来た。
「………君、大丈夫?」
腰を強かに打ちつけたのか、臀部上方を左手で擦りながら四方に散ばった羊皮紙を集めている。
流石にこの状況で手を貸さないのは男として拙いだろう。男なら未だしも、相手は5つも下の女子生徒。況して、リドルが最近気に掛けている生徒と為れば、膝
を折り腕を差延べる事など容易い。
「あ、有難う御座います。済みません、読書の邪魔をしてしまって」
「いや、構わないよ。片手間に読んでいただけだから。其れより怪我はな――――」
羊皮紙の最後の一枚を拾上げたが、差し伸ばされたリドルの手を掴もうと顔を上げた際、切れ長の双眸と相俟って涼しげな印象を醸し出している黒眉が僅か
顰められた。
如何かしたのか、やはり怪我でも…と問い直し掛けたリドルの眼前に、絹糸を縒り合せた様な極上の漆黒がふわりと舞い拡がる。
普段のリドルが知るの姿。淡い紫の瞳と同系色の組紐を組み合わせて夜会巻きの様にアップスタイルにしていた筈が今は、重力で地面に向って垂れ下がる見
事な漆黒の髪は波打ちながらときどき気紛れに揺れている。
の手には無残に二つに折れた銀の簪。如何やら転んだ瞬間に髪から滑り落ち、硬い暖炉の石の上に落ちた衝撃で割れてしまったのだろう。唯一髪型を維持し
ていた結い紐までもが解け、リドルの眼前に映り込む少女を見て、リドルは、まるで知らない女が舞い出でた様な心地に為った。
「髪をおろすと、まるで異国の珍しい鳥のようだ。」
「……それは褒め言葉と取って良いのでしょうか。」
「あぁ、ごめん、そういう意味じゃないんだ。普段と印象が違うから……まるで君を見失ったような心地がして」
、とリドルは感嘆を滲ませた苦笑を浮かべる。まだ子どもらしさを残しながらも次期スリザリン寮監督生だと囁かれるほど聡明で才色兼備、リドルの素性さえも
見抜かんとする鋭敏さを奥深くに確かに宿す紫水晶の眼差しに、リドルは文字通り釘付けにされていた。
「済みません、鬱陶しいですよね。今直ぐ結い直しますから。」
慌てて羊皮紙の上に魔法薬学の教科書を重ね置き、談話室の地面に膝を貼り付けた侭の状態で薄い唇に結い紐を咥えると、器用にするすると長い天鵞絨の様な髪
を自在に操って見事な夜会巻きを作り上げた。
懐の簪に魔法を掛け、最後のまとめに、と組み上げられた髪にさそうとするの手を、リドルが静止する。
「器用だね。僕にも少しだけ、遣らせてくれない?」
「や、遣らせるって…髪の毛を結いたいって事ですか?」
「そうだね、まさか初めて出逢った君に”抱かせろ”なんて言わないよ」
爽やかな笑顔を浮かべてにこりと笑んだリドルは、が結い上げたばかりの結い紐を人差し指に引っ掛けするりと抜き去ると、ふわりを空に舞う漆黒を手櫛で
解す。
座り込むの隣にリドルが腰を落として尚、リドルの胸よりも低い身体は難なく髪を結える位置に在って、境界線無く揺れる髪をひと房とって先ほどが組
み上げた様にするすると巻上げていく。
「うーん、中々奥が深いね。解いた事は何度もあるんだけど、結った事は無いからね…」
「解い……えっ………!?」
髪に神経など通っていない筈だと云うに、過敏に張り巡らせた神経を直接触られている様な感覚に居た溜まれずに居たの耳に届いたリドルの台詞の意図する
意味を理解した途端、の顔は首まで真っ赤に染まる。
男が女の髪を解く状況、幾ら子どもとは言え、クィディッチや朝食の場で普通に行われるようなものではない。では、どのような状況で解かれるかなんて、考え
なくとも判っている。判っているが、其れを話題に出来るほどあっけらかんとした性格ではない為、内に押し殺した
恥ずかしさに逃げ出したい気持ちになる。
しかし、リドルがの髪を握っている今、それも叶わなかった。
「やっぱり練習が必要かな。僕が遣ると折角の綺麗な髪が台無しだ」
さて如何しよう、とリドルは一旦言葉を区切る。
が立ち上がれば一気に上から巻上げた髪が崩落しそうな気配さえ漂う不出来栄えの夜会巻き、視界に入れながら唐突に面白いことを思いついたよう、ふわり
と、柔和な笑みを形造ってみせる。
「いつか、の為に…練習させて貰えないかな、」
「どうし―――――」
「ね、」
遠くから見ているだけだった筈のスリザリン寮監督生の肌色の濃くない、骨張った右手が、の頬に寄り添う髪に触れる。時間の経過と共に徐々に崩れ始めた
頬へ流れる黒糸は、リドルの指の隙間を心地良く滑っていく。 其れを慈しむ様に撫ぜ、柔らかく唇を落としては、微かに笑みを刻み、誘う様に手を伸ばす。
「あの、ミスターリドル」
「トムでいいよ、」
黒い睫毛が、ふ、とかそけく震え、昏い照度の下でその影を揺らす。に拒絶する言葉など出せる筈も無く、時計が時を刻む音だけが静寂の狭間に聞こえるな
か、ゆっくりと差し伸ばされた手に掌を重ねれば、僅か、リドルの口の端が緩んだように見えた。
リドルが自ら解いたの髪を綺麗に結い上げる日はそう遠からず、差し伸ばされた手の、先に。
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